ドイツに“オーバーアマガウ / Oberammergau”という村がある。南ドイツはバイエルン地方のアルプスの山々に囲まれた、オーストリアとの国境近くに位置する小さな村である。素朴な雰囲気のこの村では、家の壁に伝統的なフレスコ画が描かれた光景が見られる。
この小村は10年に1度、「キリスト受難劇」が開催されることで、非常に有名である。オーバーアマガウの村の人口5,000人のうち、半数の2,500名が、この上演に演技、オーケストラ、コーラス、裏方に渡って関わっているという。上演時間は前半・後半合わせて6時間ほどで、途中、夕食をはさみ、沈みゆく太陽、夕暮れから夜へと周囲の情景の変化も演出の一部として計算され尽くし、その全てが相まって観客を美しい聖書の世界へと誘いうとある。 この「受難劇」の由来と次第については、広報にこう記されている。「1632年、ヨーロッパ中に猛威をふるったペストにより多数の被害が発生しました。ところがオーバーアマガウでは奇跡的に被害が少なかったのです。信仰篤い村の人々はこれは神の御加護によるものだと神に感謝して、『私たちの主イエス・キリストの苦難と死とそして 復活の劇を演じます』と誓いを立て、1634年以来380年以上も受難劇を上演し続けてきました。出演、制作は全てアマチュアの村人たちで、上演にあたる年は本職を休むほどで、演じられる劇はまさにスペクタクルです。この奇跡を見ようと世界中から50万人以上が訪れます」。
「上演時間は前半・後半合わせて6時間ほどで、途中、夕食をはさみ、沈みゆく太陽、夕暮れから夜へと周囲の情景の変化も演出の一部」とあるように、幕間の「夕食時間」もまた受難劇の構成の一部として、設定されている、というのである。丁度、主イエスが多くの人々と食事を共にし、喜びや悲しみ、悩み、痛みや不安のすべてを、そこで分かち合ったことを偲ばせる様な見事な演出である。各々がそれぞれに重い現実をかこつとしても、その重圧に打ちひしがれるのではなくて、もう一つの別の現実、即ち「神の国」を望み見ることができるのである。
黙示録の著者は、当時の演劇、芝居の構成を念頭に、この著作を記していると思われる。ヘレニズム世界においては、スタディアムでの競技観戦と並んで、演劇鑑賞は、大きな娯楽であった。この地方の古代遺跡には、劇場跡が数多く発掘されているが、その規模の大きさや音響への工夫等、現代人の目をも見張らせるものがある。
古代の演劇も、現代劇の演出と同様に、ただ芝居そのものが上演される訳ではない。芝居の始まる前は、聴衆の興味、関心、期待を高めるために、「前奏曲」が演奏され、その後、舞台の幕が開き、劇が演じられる。そして第一幕、第二幕、という具合に芝居が展開されていくが、幕間には間奏曲として、再び楽が奏され、歌手によってコーラスが奏でられ、変化をつけて観客の耳目を楽しませる工夫をするのである。
今日の個所は、14節「第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る」という台詞(ナレーション)の後に続くパラグラフである。黙示録には3度にわたる「災い」が語られるが、それぞれの災厄が「ひと幕」、つまり舞台で演じられる「芝居」に相当し、今日の個所は、その幕間に奏でられる「コーラス」、どちらかと言えば小規模な人数による歌、という風な趣を持っている。それらの「災い」であるが、8章に記される第一のものは、「天変地異」、地震、雷、暴風、嵐、津波、小惑星の衝突といった「自然災害」、あるいは、病害虫によって生じる飢饉や、疫病の蔓延による健康被害といった「災害」を指しているようである。また9章に記される「災厄」は、戦争による甚大な被害や荒廃について語られている。これらの災厄は、古代世界ばかりでなく、現代においても、私たちの生活を直撃する脅威であり、今もなお、この世界を蝕んでいる禍である。津波被害、原発事故、異常気象による飢饉、ウイルスの蔓延、戦争の勃発等、今、私たちの日常を脅かす災厄に枚挙に暇がない。
人間の生活の営みは、襲い来る災厄にいかに対処するか、という歴史であったということができる。脅威に対抗するため、インフラが整備され、様々に安全策が工夫され、軍事的抑止のために、より強力な破壊兵器が開発され、ワクチンを始めとする医療技術の進歩に拍車が掛けられてきた。ところが、そうした進歩発展を嘲笑うかのように、脅威は去らず、却ってより強大化しているようにさえ見えるのは、実に皮肉である。
実のところ「脅威に対抗するため」という大義名分は、今もこの世界に満ち満ちている格好の言い訳である。人間たちは密かに、自分たちこそが「世界の主人」であると自負している。「脅威」に屈することは、もはや自分たちは「自然界の霊長」の座を失ってしまうことを恐れるのである。ところが、今もなお、自然の諸力は人間の力を凌駕し、そのエネルギーの前に人間はひとたまりもないのである。たとえ「大量破壊兵器」を保有し、それで誰かを威圧したとしても、いざそれを用いるなら、われとわが身をも破壊し尽くすことになるのを知らぬかのように、嘯くのである。
「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」この事実に「異邦人たちは怒り狂う」というのである。「異邦人」とは、「神を知らぬ者」という意味であるが、これを宗教的にのみ理解する必要はないだろう。現代人と言い換えても、そのまま通るように思う。誰が世界の主人なのか、誰がこの世を本当に統べ治めることができるのか。自らの十字架によって「すべてを救う」とは、この世の人間には及びもつかないことである。
オーバーアマガウ村の受難劇は、ペスト禍が猖獗を極めた歴史を背景に、上演されるようになったという。悪魔のような疫病の災厄を経験した村人が、悲惨の中にあっても神の恵みがもたらされたことを、当然とせず、「主イエス・キリストの苦難と死とそして復活」を覚えるために、受難劇を始めたのである。この世は今も闇に覆われているように見える。自然の大災害や戦争の悲劇といった災厄は、止む所を知らない。それでも「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」と高らかに歌われる。目の前の現実から目を反らして、ないことにはできないが、現実とはそれだけのものではない。現実から一度退いて、間奏曲に耳を澄ませつつ、主イエスが自らの生命をもって開かれたもう一つの現実、神の国に、心と目を向けることはできないのだろうか。