祈祷会・聖書の学び ヨハネの黙示録4章1~11節

世界は広く、言葉や慣習の違いがあるが、それでも各国で共通する事象がある。その一つは「交通信号」の色であろう。「赤、黄、青(緑)」がどの国でも共通に用いられているが、その背景についてこう説明されている。「電気式の信号機は、1918年にアメリカのニューヨーク5番街に設置されたものが世界初といわれています。このとき、すでに信号機の色は赤・黄・緑の3色が使われていました。注意喚起を主な目的とした黄は、赤と緑の中間にある色として採用され、雨や霧など視界が悪い中でも比較的良好に判別できることも、黄が使われた理由かもしれません。なお、信号機の色は、海外でも日本と同じ赤・黄・緑の3色が使われています。これはCIE(国際照明委員会)によって、信号機は赤・緑・黄・白・青の5色と規定され、交通信号機には赤・黄・緑の3色が割り当てられているからです。そして、ほぼすべての国で信号機の『止まれ』には赤、前に『進んでも良い』には緑が使われています」(JAF「クルマ何でも質問箱」)。

やはり「色」によって、人間は心に感じる情動があり、それに大きく影響を受けているのである。実に「色彩」によって、安心や危険、また元気や安らぎ、希望と絶望、落ち着きと勇気を与えられるのである。壁に一幅の絵がさりげなく掲げられているだけでも、そこには豊かな心象風景が広がるものである。

前回、ファンタジーについて、少しばかりお話をした。ギリシア語起源のその用語は元々「見えるようになる」という意味であり、不安で危機に満ちて、気や心が動転してしまう切迫した状況にあって、全く別の異なる世界を呈示して、新しい光が見えるように、目された文学であると言えるだろう。黙示録もまた、文学的類型から言えば「ファンタジー」であり、象徴的な事物を多用して、終末のヴィジョンを語る、という幻想的な様式を持つている。そしてそれは、あるはっきりとした意図と目的をもって記されていると言えるだろう。それは当事者の眼前に繰り広げられる現実が、大きな危機や困難に満ちている時に、その現実に埋没しないようにするためである。苦難にまったく飲み込まれたなら、只おたおたとするばかりで、困難な現実と向き合い、逃れ口や抜け道、あるいは対処の方法、また折り合いの付け方を見失ってしまうからである。そこで信号のような象徴的事物が必要となるのである。丁度、複雑怪奇な交通の混乱を、信号の単純ないくつかの色が点滅して流れを制御し、その動きを導くような塩梅であると言ったら言い過ぎであろうか。

確かに、奇妙な光景を描く文学である。こんなことが本当に起こるのかどうか、などと考えるのは、野暮で頭の固い証拠である。聖書なのだから本当だと信じねばならぬ、というのも、頭の硬い証拠であろう。問題は、こういう風変わりな文学表現を読み、自分の心に描いてみて、面白いと楽しむことが出来るかどうか。現実を見る目と、それとは別のもう一つの世界を見る目を持ち、楽しめるなら、困難にただ飲み込まれずに済む。いい映画を見た時に、あるいは良い文学を読み終えた時に、私たちの心は、以前とは変化をしているはずである。黙示録の作者は、それを目論んで、この書を書き進めるのである。

ヨハネの黙示録は、読者の心に、様々な心象風景を投影するために、いろいろな具象を用いている。まあしゃれているのである。例えば、「玉座」にすわる「キリスト」は「碧玉」「赤めのう」のようであり、そして「エメラルド」の虹が彼を取り囲む、という。「青」「赤」「緑」である。なぜそれらの色がちりばめられるのか。

「色」が謎解きパズルのように、巧みに用いられている例は、枚挙にいとまがないが、最も有名なのは、絵画で、聖母マリアの服の色であろう、改めて「聖母」を描いている幾つもの絵画を眺めて欲しい。共通する色使いで描かれていることに気づくだろう。何色が使われているだろうか。それは「青」と「赤」である。彼女は必ずこの色の服を着て、絵画に収まっているのである。貧しい家の出だったから、服も一張羅だった、という訳ではなかろう。色に「神秘的意味」が付与されているのである。「赤」は血の色で、「十字架」をあらわす、そして「青」は「海の色」で、「純粋さ、無垢さ」を表す、さらに「緑」は、「オリーブの若葉」で、「平和」を表しているとされるのである。

黙示録も仕掛け絵本のように、至る所に「なぞなぞ」を配置し、「謎解き」を楽しんでください、と背後に暗に示すのである。但し「黙示録」、使徒ヨハネによって記されたと今に伝えられるが、すべて彼の創作,イマジネーションによるものではない。ちゃんと「元ネタ」がある。今日の個所は、元ネタが何であるのか、極めてよく分かる記述がなされている。

玉座を取り巻くように控え侍る、「四つの生き物」がいるというのである。これは旧約で非常によく知られた具象である。黙示録の元ネタの多くは、エゼキエル書から採られている。エゼキエルは、バビロン捕囚期の預言者で、捕囚となりバビロンに連れていかれた「捕囚民」の人々に語り、彼らを慰め、精神的な支えを与えた人である。公には、祖国の崩壊、滅亡を目にし、捕囚を体験し、私生活でも、全くの突然に妻を失うという悲しみの中で、職務を果たした人である。そういう耐えがたい悲しみの中で、彼を支えたのは、「神からのヴィジョン」、即ち豊かなイマジネーションであった。

エゼキエル書1章に目を向けたい。エゼキエルの見た神の幻だという。私たちからすると、実に奇妙な姿かたちである。そもそも神は姿かたちを持たない。それを敢えて視覚的に表現しようとすると、このような奇怪な形相を呈することになるだろう。バビロニアは偶像の町である。大きな神殿があり、神の像が祀られている。しかしどんな像に刻んでも、人間には真の神の姿かたちを造ることはできない、と主張しているのである。だからとんでもない形なのである。ひとつのなかに、あらゆるものが混在し、混生され、ひとつになっている。神とはありとあらゆるもの、あらゆる事柄の総和なのだ、という預言者の神学の視覚化なのである。

ヨハネは、この神の姿かたちを利用して、自らの神学的なメッセージを語る。エゼキエルでは、ひとつにされた4つの生き物を、分解してひとつ一つ独立した存在として描き出す。エゼキエルの幻はあまりに奇妙奇天烈と感じたからだろう。だからヨハネはそのかたちを分かりやすく分解した。「人間」「獅子」「牛」「鷲」の4つの生き物が、キリストの玉座を取り囲んで、賛美をするというのである。その表象は何を指示するものか。

さて今日の個所の一番の課題である。この「4つの生き物」が一体何を指しているのか新約に「福音書」と呼ばれる書物が4つある。福音書こそ真のイスラエルの源であるイエス・キリストを証言し、賛美するものである。4つの生き物には、目がたくさんついている、という。福音書に語られる主イエスを、しっかりと目を見開いて見なさいということである。厳しい現実だけに目を向けていたら、私たちはどうにも袋小路に陥る。立ち往生する。そこで見るべきは、この世に生き、現実に向き合われた主の姿なのであり、その歩みについて行くことである。主イエスを知るに、福音書に若くものはない。