クリスマス・イヴ礼拝 「光は暗闇の中で」ヨハネによる福音書1章1~14節

祝クリスマス、夕べのひと時、皆様方と共に、主のご降誕を喜ぶことの幸いを感謝したい。クリスマスにツリーを飾り、そこに火を灯して祝うという習慣は、宗教改革者マルティン・ルターに始まると言われる。冬至の頃の夜のとばりは早い、辺り一面、闇に沈む森の道に、家路を急いでいた仕事帰りのルターは、黒い森の木々の上にきらきらと瞬く星の光の美しさに目を見張ったという。「暗い闇の中にも、神は必ずどこかに光を灯し、人々の心を導き給う」、黒い木々を照らす星の光の瞬きの美しさを、子どもたちにもぜひ見せたいと考えた宗教改革者は、自宅の居間に飾ってあるツリーに、たくさんのろうそくを取り付けて、それに灯を点し、星の光を偲ぶ縁としたとのことである。

今もこのルターの故事に習い、クリスマスのもみの木に明かりが灯されるのだが、かのドイツでは、昔ながらの本物のろうそくの光を好み、直火をツリーの枝に設える人も多いという。そのおかげで、ドイツではこのクリスマスの時季、ぼや火事が頻繁に起こる、と聞いたことがある。これもまた宗教改革の功罪のひとつか。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」、また「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」とみ言葉に記されるように、主イエス・キリスト、私たちの救い主の誕生は、「光の到来」に喩えられる。クリスマスは「夜の出来事」というイメージで捉えられ、闇の中に点される光に象徴されるのである。聖書の時代の光は、現在の電気エネルギーによる眩い鮮やかな光ではなく、ゆらゆらと瞬く、ほの暗い小さな灯である。普通の家では、ともし火は皆が集まる居間にひとつ置かれるのみである。か細い、頼りなく見える灯りであるが、その小さな光があるおかげで、家族は闇の中でも安心し、寛ぎ、こころを共にすることができたのである。

「光は暗闇の中で輝いている」。暗闇は光を理解しなかった」。真っ暗闇では心が不安になるが、暗闇に光が灯されて居れば、心が落ち着き、希望の思いがおのずと生じて来る。

最も新しい翻訳、協会共同訳では、「闇は光に勝たなかった」とかつての翻訳に回帰して訳している。「理解しなかった」、とは文字通りには「追いつかなかった」、光と闇が競争しているように感じられるが、いわゆる「光と闇の戦い」という考え方がここにある(私たちはどうも勝負事が好きである)のではない。もっと単純に、この世には闇があり、そして光もある。この世の「闇」は至る所、人間の営みのあるところ、闇のないところはない。戦争、暴力、病、虚偽、不信、今にも人間はそれに埋め尽くされ、飲み込まれてしまいそうになっている。もしそうなら、人間に生きる術はない。しかしそこにも光が点される、たとえ小さな光でも、それをあなたは心に捉えることができるか、「理解」することができか。闇は光を理解しない、分かろうともしない。所詮、この世は闇だ、それでお終いでは希望が費えてしまい、それから先の道は閉ざされるであろう。

例しに、じっと光を見つめる、すると何が起こるか、心からいろいろな雑念が消えて、すっと集中する。電気の鋭い光ではなく、星明かりや灯心のともしびは、静かに、そしてゆらゆらと不規則に瞬いている。人は、機械的で規則的な音や光の変化と繰り返しを嫌う。規則的な光はなぜか、イライラさせる。ところが、揺らぎのある音や景色を人間は好む。川のせせらぎ、海のさざ波、風鈴の音、ロウソクの炎、心臓の鼓動、木漏れ日、蛍の光。これらは、「ゆらぎ」と呼ばれ、心を癒すとされている。闇に瞬く小さな光は、命というもの、人生というものへのことばにならない感情を呼び起こす。大きな光は見る者の心を強く差し射るけれど、まぶしすぎると周囲が見えなくなる。小さな光は見る者の心をきゅっと締めつけるけれど、慈しみとしかいいようのない切ない気持ちをつなぎとめる。

戦禍を逃れて難民キャンプで暮らす子どもの心を歌ったこういう詩がある。「夕方になって、ぼろぼろのテントの中に、暗闇がいっぱいになると、おかあさんがランタンに火をつけてくれる。小さく弱い火だけれど、わたしたちは安心できる。その小さな光のそばで、絵を描いて、歌を歌って、おしゃべりをする。テントのぼろ穴から風が吹き込むと、ランタンの火が揺れる、すると影もいっしょにゆれる。わたしの描いた絵も、おにごっこをしているように遊んでいる。わたしの心も、いっしょにゆれる」。小さな光がその子の遊び相手である。

14節にヨハネのクリスマス理解の縮図が語られている。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。「神の栄光」、神は光である、という。神の光は人間の目には耐えることのできない、強さと輝きを有っている。人の目は神の姿を直視できないのである。だから神は、人と同じ姿になり、人間の子どもとして、最も弱い赤ん坊として、この世に誕生された。家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれられた。家畜小屋であるから、王様の宮殿のように煌々と照らす、無数の眩い灯りは灯されていなかったろう。まして家畜小屋を照らす灯りなど、ひとつあるかどうか、その小さな光に照らされて、飼い葉桶の赤ん坊が藁の床の上に無心に眠っている。これが神の栄光の現われである。「わたしたちはその栄光を見た、それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」、「神の恵みと真理」、それは人の目を欺き、目をくらまし、見てくれだけが仰々しく、強さによってかえって私たちの目を見えなくさせるようなものではない。心を静め、やさしく解きほぐし、穏やかに和ませる、あのゆらゆら揺れる小さな灯のように。「言葉は肉となって」自ずと祈りに導くのではないか。

こんな想い出話が語られていた「小さなわたしは、大切な人が死んでしまうことが何より恐ろしかった。死が何かもよくわからないまま、とにかくそんなことはあってはならんと考えていた。そこで、毎晩布団に入ると「誰それと誰それと誰それと……(名前を列挙)が死にませんように」と祈った。列挙する人数が次第に増え、『あぁ、面倒だな』と思った。それでも、今晩わたしがサボったせいで誰かが死ぬかもしれないと思うと恐ろしく、眠いのをこらえて長々と祈った。これをいつまでやっていたのか覚えていないが、『面倒だな』という気持ちと、わたしがやらねばという謎の使命感は記憶に残っている」(永岡 綾、編集者・製本家)。皆さんも夜の暗さの中で、かつてこの祈りを口したはずである。身近な大切な人たちのいのちのために祈る。それは闇が人を祈りへと導き、その祈りが小さな心の光となって、人生を導くのである。「闇の中に光は輝いている。闇はこれに勝たなかった」。飼い葉桶に無心に眠る赤ん坊、この小さな光に勝つことのできる闇はないのである。