祈祷会・聖書の学び ペトロの手紙二2章1~10節

テレビで「何でも鑑定団」という番組がある。長寿番組のひとつなので、それなりの視聴率があるので、「鑑定」というものに関心の高い人は多いのだろう。皆さんは「真贋」の目利きはできそうか。「鑑定士」の解説を聞くと、確かになるほどと納得させられる。それぞれの作家に特徴的な「作風、線、かたち、色、手法」等、見極めのポイントを当然の如く指摘し、的確に判断を下すのを見て、専門家の技量に舌を巻くと共に、小気味よい思いが沸き起こる。但し「鑑定士は一人前になるまで3年、熟練は10年」と言われるらしい。

ある骨董の鑑定士の弁では「結論から申し上げますと、お客様自身で本物と偽物を見分けるという行為は、全くもっておすすめしません。なぜならば基本的に、専門知識の無い方が骨董品を見て、本物かどうかを見極めるのはほとんど不可能なことに近いからです」。その道の専門家の技量は一朝一夕では獲得できないにしても、専門家ももとはと言えば素人だったはずである。それなりの習熟の途があるはずである。

「本物を見抜く目を持つためには何が必要か」、という問いについて、どう考えるか。ほとんどの提言はこれに尽きている。即ち「本物を見る、本物に触れる、本物を身近に置く」ことだという。成程、とは思うが、すでに固定し完成しているいわゆる「モノ」ならば話は早いかもしれないが、こと「人間」の場合はどうなのだろうか。人間として「本物」というのは、言葉として矛盾があるかもしれない。人ははじめから「人間」として生まれる訳で、何も努力や精進によって、あるいは何かの資格検定や鑑定によってそうなるわけではない。そして途中で不都合な事態が生じたとしても、「人間」でなくなる訳ではない。

但し、生きるにあたり何らかの「役割」を身に帯びて、それで生活の資にして生計を立てることが必要とされ。その具体化が「職業」と呼ばれるものである。しばしば犯罪事件などで、その頭に「偽」の文字が付されることがある。「偽医師」「偽警官」、「偽教師」それらは詐欺事件でのからみで、もっぱら登場する人々のことである。つまり誰かを騙して、不法に利益を得ようと目論む人が、自身を「偽る」行為を指す。

今日の聖書個所に、「偽預言者」、「偽教師(教役者)」という言葉が見える。私の恩師で、この方は牧師のご子息であったが、いつも口癖のように「牧師の息子は偽(二世)牧師」と冗談めかして語っていた。ここでの「偽」とは、本来その資格がないのに、あると嘘ついてそのふりをする「詐称」という罪を語るものではない。旧約の「偽預言者」と呼ばれた人は、多くの人々から強く支持され、好意的な目をもって受け止められていた人物であったと言えるだろう。ミカ書2章11節以下に「だれかが歩き回って、空しい偽りを語り/『ぶどう酒と濃い酒を飲みながら/お前にとくと預言を聞かせよう』と言えば/その者は、この民にたわごとを言う者とされる」とある。ミカの時代のいわゆる「預言者」と呼ばれた人々が、どのようなことを告げたのか、推測できる章句である。「預言」が実現しなければ、偽りの預言者とされ、民から絶たれるのであるから、預言者は責任を回避して、いきおい適当なことしか言わなくなる。ただ聞く人々も、そこはそれ承知している、という具合である。エレミヤの場合はより具体的に伝えられている。32章16節以下「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。わたしを侮る者たちに向かって/彼らは常に言う。『平和があなたたちに臨むと/主が語られた』と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって/『災いがあなたたちに来ることはない』と言う」。誰しも破滅の言葉を聞きたくないし、当たらなければブーイングの嵐であるから、語るのにも躊躇するし、責めを負うのは厄介である。そういう中でも、傷みつつ、真のみ言葉を語った預言者がいたのである。多くの場合、彼らは迫害された。

他方、初代教会の「偽教師」とは何か。パウロの手紙に伝えられる「偽教師(使徒)」たちとは、「偽」といっても、立派な推薦状を書いてもらえる人々であり、彼らの推薦者は大体、12使徒はじめとする初代教会の指導的立場にいた「使徒たち」であったようだ。彼らから直接教えを受けたというので、その権威を笠に着て誇っていたのである。但しペトロ書が執筆された時代は、それから大分時代が下るので、そういう人々も世を去って、次の世代に交代していただろう。

何が「偽」なのか、1~2節「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです」。主の再臨、即ち終末の時は、今日明日ではなくまだ幾分かの余裕がある、と教会の皆が考えるようになり、「(終末への)性急な備えは必要なし」という空気が次第に共有された時代が訪れたのである。すると、主イエスのみ言葉、その十字架の道、その生き方に目と耳を向けるよりも、もっと人々が興味関心を持ち、喜んで耳を傾ける事柄に集中した方が、教会の成長や発展につながるという考えを強調する指導者が、教会で支配的になったのである。

要は旧約の「偽預言者」も、初代教会の「偽教師」も共通することは、「的を外している」ということである。教会の的は、ひとつしかない。それは「主イエス」という焦点である。まことの人となり、この世に生まれ、十字架の道を歩まれた神のひとり子、この事柄から目を離せば、行き着くところは、人間だけであり、しかも己の腹をどのように満たすか、なのである。

マーガリンは当初「人造バター」と称して売り出されたことで、「偽バター」として見なされ失敗したという。バターとは異なる「マーガリン」という別物として個性化を図ったことで、その地位を得たという。「偽」はやはり「偽」でしかないのである。「真実はひとつ」というアニメのコピーがあるが、「偽」はやはり「本物」にはなれず、そもそも「本物」は、主イエス・キリストしかおられないのである。しかし「似非」であろうとも、聖書にみ言葉を通して、主イエスのみあとを追い求めて、そのみ言葉を深く味わって、誰かと分かち合って、それで生きているなら、主イエスを写す鏡としての役割は、幾分なりとも果たせるかもしれない。今も生きて働かれる主イエスに、真っすぐに向かうことが、私たちにできることの最善であろう。それ以外は、すべて「似非」である。