「それでも地球は回っている」は、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)が口にしたとされる言葉である。彼は開発されたばかりの望遠鏡を用いて天体観測を行い、惑星や衛星の動きの観察結果などから、地球が太陽の周囲を公転していると考えた方が合理的だとする論文(地動説)を発表した。しかし、当時、地動説は聖書の記述と矛盾すると批判する神学者が多数おり、1633年、カトリック教会の異端審問(裁判)にかけられ、彼は自身の著作を禁書とする処分を受け入れ、終身刑を言い渡された。(実際の投獄は免れたようである)。このガリレオ裁判について、その歴史の降ること1979年になって、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が誤りであったことを認め、真実を調査する委員会が設置され、裁判から350年後の1983年5月9日、法王がバチカンで開かれた集まりで謝罪したのである。
「天動説」か「地動説」か、という議論は、ガリレオ以前にはコペルニクスによって提唱されたことが知られているが、古代ギリシャ哲学でも同様な主張がなされていたようである。ここには「科学的真理」という問題ばかりでなく、発想する立脚点がどこにあるのかという問題が鋭く問われているであろう。即ち、自分が動くことなく中心で胡坐をかいて、あれこれと周りで起こっていることを論評するようなあり方と、自分の方が動いて、さまざまな方向から観察して、そこに見えて来るものを探るというあり方、今のあなたの姿勢はどちらなのかという問いである。
「三だけ主義(今だけ、金だけ、自分だけ)」が強調される時代、「天動説」から「地動説」へというパラダイムの変更は、ガリレオの時代ばかりでなく、現代の重要な課題なのかもしれない。カトリック教会が、350年後とは言え、自らの過誤を認め謝罪したというのは、ある意味、信仰的な健やかさの証とも言えるかもしれない。
41節「わたしは、人からの誉れは受けない」と主イエスは言われる。これは古代にあっては非常に大胆な発言であり、このような発想はおよそ為し得ないのが普通である。古代は「名誉と恥」の支配する社会、即ち「世間の目」によってそこで生きている人々の行動規範が定められるのである。そもそも自意識の発露というような思考法は、近代以後の人間理解であり、欧米では宗教改革以後に獲得されたもので、この国には明治以後にようやくもたらされたと言える。夏目漱石の文学には、自我(エゴイズム)の葛藤がつぶさに語られるが、それはかの作家が英国留学中になされた思想的な格闘の賜物として読み取れるであろう。主イエスの生きていた時代は、常に他人の目から見た自分としてしか、自己を考える術を持たないのである。
この発言の端緒は、この章の初めの事件、ベトザタの池で病人をいやし、38年もの間、病気で苦しみ、池畔の回廊に身を横たえていた病人に主イエスが目を留め、彼を癒されたことに発する。この癒しのわざについて、ユダヤ人たちが狭量に文句をつけたのである。9節以下「その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない』」。癒されて歩けるようになった病人が、床を担いで(それまで自分の横たわっていた寝台を担いで、というのではない、そんな重量物は担げない。「寝ござ」のようなものであろう)、家に帰ろうとしたら、それを「安息日だから」という理由でとがめだてをした、ということである。安息日はいかなる労働もしてはならないから、というのである。これを口実に、癒しのわざを行った主イエスの振る舞いや言動に、批判の矢を向けようとの魂胆である。
「人からの誉れは受けない」、つまり人の称賛や栄誉はどうでもいい、と主は言われる。この発言の意図は「あなたたちの内には神への愛がない」からだというのである。「神への愛がない」、ユダヤ人にとって、これは非常に憤慨させる挑発でもあったろう。神を愛するからこそ、その証として律法を忠実に守っているではないか、その核心である「安息日」を厳守しているではないか。それを「神への愛がない」とは何たる言いようか。
しかしそもそも「神の愛」とはいかなるものか、聖書(律法、またそれを民に授けたモーセ)によれば、それは神があらゆる人間に示される「あわれみ、いつくしみ、なぐさめ」のことである。それを受けた人間がなしうることは、神を愛するということしかないであろう。但し、計り知れない大いなる神の愛に、それと同等の愛をもって対することなど、いかなる人にもできはしないだろう。神の愛に対して、もしふさわしいあり方が人間にあるとすれば、その愛を自分の心と生活の真ん中において、ただ有難く受け取り、感謝して生きる他、ないであろう。他人の振る舞いにあれこれ目くじらを立てる暇などない。
川崎洋氏の詩に「ほほえみ」という作品がある。「ビールには枝豆/カレーライスには福神漬け/夕焼けには赤とんぼ/花には嵐/サンマには青い蜜柑の酸/アダムにはいちじくの葉/(中略)花見にはけんか/雪にはカラス/五寸釘には藁人形/ほほえみにはほほえみ」。それぞれにふさわしいものがある。神の愛には、何がふさわしいか、よく考えたい。
神の愛は、しばしば「光」に喩えられる。主イエスが「正しい者にも、正しくない者には神は太陽を昇らせ」と言われ、その暖まりを被らない者はないのである。私たちの生きる中心には、神の愛があり、私たちはそこから光を受けて、動き、生き、働き、休むのである。癒されて喜ぶものの振る舞いを、自分の尺度で一方的に裁く者は、そもそも神の愛を中心において、その暖かさに対して、心と身体を向けてはいないのである。
「地動説」を唱えたガリレオ・ガリレイ、かつてその説によって断罪された人の名は、実に象徴的な意味を持つ。まず「Galileo(ガリレオ)」とは「ガリラヤの人(ガリラヤ人)」という意味の言葉であり、複数形「Galilei」は「ガリラヤの人々」つまり、主イエスに従った最初の人々のことであり、ひいては「キリスト教徒(たち)」を指している。定冠詞を付けた単数形 「il Galileo」はキリスト教徒にとっては、(ガリラヤのナザレ出身の人である)イエス・キリストを指すのである。つまり、正真正銘の生粋のガリラヤ人(主イエス、また弟子たち)が、「地動説」を唱えた、と言葉遊びに受け取ることもできるのである。主イエスは十字架への道をたどり、十字架上で息を引き取られる時にも、決して神の御顔から目を反らすことはなかった。常に神に向かう歩みをされた。「それでも地球は回る」とは、主イエスの歩まれる姿そのものではないか。