「隠れたことを」マタイによる福音書6章1~15節

「この世界は誰が造っているの?」、ひとりの子どもが問いかける、それにとっさに答えられないでどぎまぎしているお父さん、それにかぶさるキャッチ・コピー「世界は誰かの仕事でできている。」こういう文章を読んだ。「『世界は誰かの仕事でできている。』コピーライター梅田悟司さんが10年余り前、世に放ったCMのコピーだ。街歩きをしている時にふと、このフレーズが浮かぶと楽しくなる。あの生け垣はどんな職人が剪定(せんてい)したのだろう。この店のユニークなデザインにはどんな意図があるのか。目に映る『誰かの仕事』に熱量を感じ、その技にくぎ付けになる。私たちの生活や豊かさは多くの人の仕事で支えられている。こうした実感が幸せな気分にしてくれる。」(4月29日付「小社会」誰かの仕事)。

この世界の諸々の事物、それらはすべて人間が造ったものではないにせよ、現代の世界は、ビルや道路等の構築物といった大きなものから、コンピュータのマイクロ・チップという微小なものに至るまで、その多くは人の手になるものである。機械で作ったにしても、それを動かしているのは人の手だから、やはりどこかの誰かが造っているのである。しかしその「誰か」の素顔を知ることはほとんどない。匿名性の中に世界は形づくられている訳である。だからその膨大な見えない人の手を想い起こして、「こうした実感が幸せな気分にしてくれる」というのは確かに健やかな心のあり様だろう。見えない手に思いを拡げる。自分もまたその手のひとつであったろうし、今もそうでありたいと願う。そして文章はこう続く。

「だが、そんな多幸感を一瞬にして萎(な)えさせるのも『誰かの仕事』である。きょうもスマートフォンに大手証券会社や米国企業を装って、フィッシングサイトに誘導しようとする偽メールが届く。SNS(交流サイト)をのぞけばフェイク(偽物)とヘイト(憎悪)の言葉があふれている。デジタル空間だけではなく、世界を成立させてきたさまざまな信頼関係が崩壊しようとしている」。人間の造り出すものは、「幸い」な事物だけではない。フェイクやヘイトといった呪いの言葉もまた、人に手になるものであるし、それが近隣の暴力やひいては国と国との争いにまで発展することもある。「右の手のわざを左の手に教えるな」という匿名性の中で創り出される「幸い」と、「自分の前でラッパを吹き鳴らし」、大衆の耳目を引いて、フェイクとヘイトを溢れさせる「呪い」とが交錯する現代世界である。そもそも宗教の論理である「祝福と呪い」とが、今も息づいていることに驚かされる。「隠れたところ」に幸いと呪いとが、あざなえる縄のように、巧みに織りなされている。

6節「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところに居られるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる」。ほんの数年前、私たちの生活は、自発的にではなく強いられて、このようにするしかない生活が繰り広げられていた。これがいつまで続くのか、やりきれない思いで過ごしていたのである。主イエスは、家に閉じこもって、誰かが来るのを静かに待っていた方ではなかった。町々を巡回して、人々の間を歩き回って、み言葉を伝え、食事を共にし、癒しのわざを行った。いわば非常にアクティブ(活発)な活動をされた方であった。ある時、家族の者たちが、人々の間に忙しく立ち働いているイエスを、取り押さえに来た、という逸話が伝えられている。家族の者たちは、主イエスの働き、宣教の価値をまったく理解していなかった、ということではない。研究者は、「そういう活動をするなら、外に出歩かないで、自分たちの家でやってくれ」という意図だったろうと推測する。かつて「亭主元気で外がいい」という標語が盛んに口にされた。しかし一家の働き盛りが家を顧みないで、いつもどこかをほっつき歩き、仲間とつるんで何をしているのか分からない、というのでは困りもんだろう。

かつてこの国での理想の人は「三高」と言われたが、最近では「三生」が強調されているという。「生存力」(予期せぬ出来事に直面した時に、生き残れる)、「生活力」(ひと通りの家事ができ、精神的にも経済的にも自立して生活できる)、「生産力」(予期せぬ出来事に直面した時に、立ち直れる精神力と必要な人脈や人望を持っている)、大変な時代だ、と思わざるを得ない。なぜならこれは結婚相手にふさわしい人間像として語られる条件なのだという。これはまさにどん逆境でもたくましくひとりで生きられる、という理想ではないか。主イエスはそういうような人であったろうか。

家族から捕まえに来られる位、そのように毎日毎時、活動的な働きをされた主イエスが、今日の個所のように「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」と言われる。実際に主イエスは、大勢の中で忙しく過ごされた後に、「寂しい所に行って、ひとり祈っておられた」としばしば記され、そして同じように、人々の間で忙しく働いてきた弟子たちが、師のところに報告に戻って来た時に、「寂しい所へ行って休め」と労われるのは、働きの力の源がどこから湧いて来るのか、を私たちに教えるものであろう。そういう主イエスの生き方が、今日のテキストの背後に強く反映している。このみ言葉に従って、教会には「退修(リトリート)」という習慣が伝統的に守られて来たのである。前向きに生きるためには、後ろ向きになる必要がある、飛行機が飛び立つ時には、滑走路を後ろに退くのと同じように、ということである。

しかしこのテキストは、「退修」の勧め、日常べったりに取り込まれるのではなく、そこから一たび身を引いて、ひとり祈りに専念することだけを勧めているのではない。「偽善」という言葉がこの個所のキーワードの一つであるだろう。さらに「報い」という言葉も、この個所には散りばめられている。どちらもマタイ好みの用語であり、この福音書の著者の視点や価値観がよく反映されているといえるだろう。マタイは、「子どものようにならなければ、神の国には入れない」という言葉に象徴されるように、純粋であること、無垢であること、謙虚であることの大切さを強調する。

皆さんは「偽善」をどう考えるのか。ギリシア語の原意は「演技する、ふりをする」という意味である。かつてはこの国でボランティアしている人を、ひとくくりに「偽善者」呼ばわりする風潮があった。これも乱暴な決めつけであろうが、阪神淡路震災後に、「しない善よりする偽善」という言葉が語られるようになった。善行を為すことはその動機に関わらず何もしないよりも優れているではないか。「偽善」と批判して無関心になり、何もしないのよりましだ、というのである。主イエスが具体例として挙げている偽善者の振る舞い、「施しをする時に、ラッパを吹き鳴らす」ことや、祈る時に「会堂や大通りの辻に立って祈りたがる」というのは、確かに滑稽であるし、本気でこんなことをしていたとしたら、実に哀れである。

「偽善」の問題とは何か、その当人の心が純粋でない、とか、真っすぐでないとか、下心があるとか、という以上に、誰か他人の目しか見ていないところこそが、問題なのである。「偽善」と対のように「報い」という言葉が語られる。人の目ばかり気にしているから、演技やふりになる。人の目に縛られて、がんじがらめになる。本来、信じることにおいては、取り繕うことなど空しく、ただ神の前に、なりふり構わず向き合うしかない、だからこそ自分が解き放たれるのである。ただ神にのみ「向き合う」はずの「祈り」においても、人の目しかない、となれば、その人の前には、もはや神はいないのである。「偽善」は神を向こうに追いやってしまう。これが「報い」だと主イエスは言う。

最初に紹介した文章の続きを少しばかり、「『私たちは他者や自分の外側にあるものを信頼できなければ生きていけない。外界への信頼を失い、自分の口や鼻をふさいでしまえば呼吸すらできない』。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏はこう指摘。『テクノロジーを媒介にした上で、人間同士の信頼を築く方法を考え直す必要がある』と説く。生命の基盤が崩壊し、顔の見えない『誰かの仕業』で覆われる世界など誰も想像したくないだろう。私たちの知恵が問われている」。

隠れたところの、人間の良い働きを認めるからこそ、信頼の絆が生まれて、そこから共に生きる希望が生まれる。ところが、隠れたところでなされる「悪」によって、人間を繋ぐ信が断ち切られて分断されていく。結局、隠れたところに人間の問題は凝縮されている。どんなテクノロジーが隠れたところの「信」を回復させてくれるのか。

聖書において、神は「隠れたところにおられる方」である。パウロは「知られざる神」と言い表した。即ち、人の知らない所で、隠れたところで神は働かれているから、そんなところにもう希望はないというような時と場所に、働かれるということである。主が十字架を担い歩まれ、釘付けられた時に、人は激しくののしったが、神は何も語られなかった。「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てるのか」という主のいまわの悲痛な叫びにも、まったく沈黙されていたのである。しかしその悲惨の最期、死の闇の中に、その背後に隠れてよみがえりの御手を伸ばされるのである。「神は主を、死人の中からよみがえらされた」、教会の最初の信仰告白の言葉である。そのように隠れてみわざをなさる神に、寂しい所、隠れたところで私たちは向き合うしかないであろう。そこは主イエスもおられる場所である。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」だからこう祈りなさい、と主は祈りを教えてくださった。共に主も祈ってくださるのである。