ペンテコステ礼拝「神の偉大な業を」使徒言行録2章1~11節

本日は、「ペンテコステ・聖霊降臨日」と、「花の日・子どもの日」が合わさった祝祭日の礼拝を行なう「聖霊、花、子ども」、これら3つの「三題噺」を試みる訳であるが、上手く行ったらお慰みである。

まど・みちお氏の作品に「はながさいた」という詩がある。「はなが さいた/はなが さいた/はひふへ ほほほ/はなが さいて/みない ひと いない/はなが さいた/はなが さいた/ほへふひ ははは/はなが さいて/おこる ひと いない」。この「はな」は桜だろうか、チューリップか、菜の花か、ともあれ、花が咲いて、それで何をする訳でもないが、人は自然にそこに目が向かう、そしておのずと、何とも知れぬ「はひふへ ほほほ/ほへふひ ははは」と心に笑みが生まれて来る、「花みておこる人いない」である。もしそれでも、怒りの気持ちが湧いて来るなら、自分の心に風、聖書では聖霊、神の息を吹き込んで、心の空気の入れ替えをした方が良いだろう。聖霊は「笑いをもたらす霊」とも言われる。子どものうれしそうな、大きな笑い声は、きっと聖霊の賜物だろうか。その声を雑音、騒音としてしか聴けなくなったら、私たち大人も、聖霊の力をいただかなくてはならない。何とかつながったか。

さて、「影法師」という音楽グループがある。山形県長井市の農業や自営業等を営む4人組のフォークソンググループである。結成50年目を迎えたという。これまで100曲以上を世に送り出し、東北の地域に根ざし、生活の中で感じた思いや社会、政治の問題を鋭いメッセージに込めて歌い続けてきた。50年目を迎え、メンバーのほとんどが70歳を超えた。「先が見え、もう長くはない。若い人たちがこれからの世の中を作っていくが、我々年寄りが今のうちに言いたいことを言っておこう」と、「遺言」と名付けたイベントを企画している。

このグループの代表曲に「花は咲けども」という歌がある。東北の震災の応援歌のようにテレビで流されたかの曲のアンサーソング(応答歌)の趣でもある。歌詞にこう詠われる「もぬけの殻の 寂しい町で/それでも草木は 花を咲かせる/花は咲けども 花は咲けども/春を喜ぶ 人はなし」、きつい、厳しい歌詞だが、そこに生きている人の心を率直に写し出しているだろう。「震災で誰もいなくなった寂しい町に、それでも季節は廻り草木は花をつける、しかし町はもぬけの殻で、花が咲いても、それを見て、春の訪れを喜ぶ人はもうここにはいない」と詠われる。寂しい歌だ、そして実際のことだ。「花は咲けども 春を喜ぶ 人はなし」という現実は、この国の被災地ばかりか、ウクライナやミャンマー、ガザの風景と重なって来る。

今日はペンテコステなので、その出来事を伝える聖書の個所、毎度おなじみ、使徒言行録2章の聖書個所を取り上げる。聖霊降臨の出来事、即ち、最初の教会の誕生を物語る記事である。「大風、劇音、炎、言葉、弟子たち、そしてそこに居合わせた大勢の人々」、大道具小道具をふんだんに盛り込み、巧みな舞台を設えて語られるが、優れた文章家であるルカらしい筆さばきである。ここで著者は、旧約のある有名な物語を強く念頭において、その物語への応答として、教会誕生の次第を記すのである。歴史家は過去の出来事が、今現在、自分が生きている時代と決して無関係に展開しているとは考えない。私たちは、自身がまだ生まれてもいない過去の出来事に、自分は何の関係ないと思っていても、その遥かな影響からは逃れられないのである。否が応でも負わされる正負の遺産がある。歴史家のルカは、そういう影響史を深く洞察しており、読者になじみ深い、旧約の古い逸話を読者に想い起させるのである。

その旧約の物語はこう始まる、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」。人類が言語を獲得した時期は明確には特定できないが、およそ10万年から8万年前に、ホモ・サピエンスがアフリカを出て世界中に拡散する前に、言語の原型が生まれていたと考えられている。言語能力の獲得が人間のそれからの運命を決定づけたと言える。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言ったという。しかしその目論見は、神によって高慢と見なされ、人々の用いている言葉が乱され、ばらばらにされた。現在、世界の言語数は、およそ7千の数と見なされ(Ethnologue)、因みにこの国の言語数は、9言語、そのうちアイヌ語、八丈語、奄美語、八重山語等8言語が、「危機言語」に指定されている(UNESCO)という。

その結果、物語はこのように閉じられる「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」。このよく知られた「バベルの塔」の逸話は、聖書の人々にとって、極めて自分自身の「らしさ」を説明する物語でもあったろう。「塔の頂を天にまで届かせよう」とする人間の高慢の罪をただ論うのではなく、この国でもしばしば議論される一極集中への批判がここにはある。素よりヘブライ人は「さすらいの民」として自らを理解しており、他の民族が大都市に集中してここにメガロポリスを建築しようとしたのに対して、散らされて生きることを、自身のあり方としていたのである。但し「さすらう者」は、大きな苦労をも背負い込むこととなる、それは出会う人々とのコミュニケーション、言語の問題である。言葉に苦労した聖書の人々の思いが、この旧約の古い物語には色濃くにじんでいる。そして今日の聖書の個所、ペンテコステの出来事にも、それは遥かに時を超えて、刻印を押しているのである。

4節「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。それまで沈黙していた弟子たちが話を始めた。聖書で聖霊の働きとは、まず語るべき言葉を失っていた人々が、再び言葉を回復するyぽうになったということである。人間は時に言葉を失ってしまうことがある。病気によって、悲しみによって、嘆きによって、ストレスによって言葉を失ってしまう、ということがある。そしてまた、不条理に深く嘆き悲しむ人を前にして、何の慰めの言葉も出て来ない、何も語れないということもある。沈黙は人間にとって、悲しく苦しいことでもあるが、それは人間としての証なのかもしれない。しかし聖書は、そのような閉ざされた口が、失われた言葉が、神の働きによって回復させられ、再び大胆に語り始めることを伝えている。

使徒言行録を書いたのは、福音書を書いたルカである。彼の手になる福音書の冒頭には、祭司ザカリヤの物語、神の言葉を信じなかったために、自らの言葉を失い、そしてまたみ言葉を語る口を回復させられた人の物語が記されている。「信(頼)」がないと、自分の語るべき、語りたい言葉、本当のコミュニケーションの言葉を喪失するのである。それを繰り返すかのように、使徒言行録では、言葉を失い、沈黙の中にあった弟子たちが、再びおしゃべりを回復していったことが伝えられる。しかしおしゃべりとはいえ、それは単なる世間話ではない。懐かしい主イエスのみ言葉がよみがえったという、それが「神の言葉」として周りにいた、いろいろな国々出身の者たちの耳に届き、そのまた心に響いたのである。6節「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」「故郷の言葉」、あの懐かしい言葉、私が親から周りの人々からかつて聞かされて、それで育てられて来た言葉、それが改めて新しく、今聞こえて来た、というのである。こんな言葉は果たしてあるのだろうか。

詩人の杉本深由起氏の作品「こころにつぼみが」という詩を紹介したい。「だれかにやさしくされたら/だれかに/やさしくしたくなる/こころにつぼみが/ふくらんで/パッと/花がひらく/たんぽぽみたいね/『ありがとう』って咲いた花は/綿毛になり/また/だれかのこころに/とんでいく/わたしとだれかの/こころ ころころ/春にして」。主イエスは「野の花を見よ」と言われた、「今日は咲いていて、明日は世に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる、ましてあなたがたにはなおさら」。野の花を美しいと見る心があるなら、神の言葉が、またあなたの心に息づくだろう。「『ありがとう』って咲いた花は/綿毛になり/また/だれかのこころに/とんでいく」。「花は咲けども/春を喜ぶ 人はなし」、それでもその地に草木は花を咲かせ、いのちの息吹が伝えられるのである。神の風と共に、主イエスのよみがえりのみ言葉が、伝えられ聞かれるのである。私の言葉として、懐かしい故郷の言葉ように響く。

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