泳げない人のことを俗に「カナズチ」と呼ぶ向きがある。木の取っ手が付いていても「金槌」のように水に入れれば沈んでしまうからだという、古い時代の喩えである。人は誕生する前の胎児の時には、羊水に浸かって過ごしていた訳だから、泳げないはずはない、と言われるが、なぜ泳げないか、その理由として、「水への恐怖心、浮かないこと、正しい泳ぎ方を知らない、息継ぎが苦手、バタ足が苦手などが挙げられるという。また、泳ぎに対する自信がないことや、溺れかけた経験も原因となる」そうである。
一昔前は、泳げない子どもを大人が無理やり水中に投げ込んで、スパルタ的方法で泳ぎを学ばせた、等という話もよく聞いたが、そんな乱暴な方法が、効果的であるかは論外である。私も小学校の低学年までは、水が怖くて、頭を水につけることができず、プールサイド脇でたむろしていることが多く、先生から「きみのあたまは、ぜんぜんぬれていないね」とあきれられたものである。ところが泳げるようになったきっかけは、実に簡単であった。夏休みに遠方からいとこがやって来て、しばらくわが家で過ごしたのだが、暑い盛りでプールに行くことになった。私は泳げないので、プールの端でただ水に浸かっていたのだが、いとこが手を引いて、そのまま水中に潜ったのである。手をつないでいるという安心感から、つられて私も潜ってみると、身体が自然と浮くではないか、「浮くことができる」という感覚は、心身に何とも言えない喜びと解放感を与え、恐さが遠のき、何となく泳げるようになった次第である。今でも感謝している。
さて、今日の聖書個所は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるという場面である。キリスト者であるとは、一般に「バプテスマ(洗礼)」を受けた者と理解されている。もっとも、教会によって、牧師が洗礼志願者に、頭に水を垂らし行う「滴礼」と、全身を水に浸す「浸礼」という形式の違いはあっても、「主にあって」バプテスマを受けることには変わりはない。ところが身体を水に浸して入信の儀礼とすることは、キリスト教の専売特許ではないのである。
エルサレム神殿では、異教徒がユダヤ教に改宗する際の儀礼として、身体に水を注いで清める儀式が行われていた。水の儀礼としては、ユダヤ教三大祭りの内の仮庵祭では、七日間毎日行われる祭儀のひとつに、「水注ぎ」があったことが伝えられている。祭司が、金の水差しに、シロアムの池から水を満たして来て、祭壇に注ぎかけるのである。やはり「水」の持つ神秘性がそういう儀礼を生み出したのであろう。
そもそも主イエスが受けられたのは、ヨハネがヨルダン川で行っていた「罪の悔い改めのバプテスマ」なのである。バプテスマのヨハネは、「悔い改め」の儀礼が、エルサレム神殿の独占物でなく、いついかなるところでもおこなわれるべきであること、それ以上に、日常的な営みとして、「儀式」としてではなく全身全霊、真心をもって「今」なされるべきであることを示したのである。そして民衆の多くは、この考え方に共感し、彼の下でバプテスマを受けることを願ったのであろう。主イエスも、その中のひとりであった。歴史学者は等しく、ナザレのイエスが、バブテスマのヨハネからバプテスマを受けたことは、歴史的に間違いないと主張する。
身体に水を注いだり、水につかったりすることによって、宗教的な清めと考える儀礼は、キリスト教だけでなく、他のさまざまな宗教に等しく見られる儀礼である。だから教会は、バプテスマの意味を、いろいろな方向から神学的に根拠付けてきた。例えば「古い人が死に、新しい人としてよみがえること」という説明は、主イエスの十字架の死と復活に預かるものとして、バプテスマの本質を示そうとしていると言えるだろう。
泳げない者にとって、あるいは水の災害を体験した者にとって、水は恐怖である。詩編などでも「大水に飲み込まれる」恐怖を語る(もちろん大水は神話的な表象であるのだが)章句が散見されるのは、水に対する恐れがその背後に潜んでいるからであろう。氾濫する水が濁流となって押し寄せ、すべてを覆い尽くし、押し流していく有様は、死をもたらす大きな脅威である。そのように水が死を来たらせる呪いである一方、洪水は上流の土に含まれる養分を豊かに運んで来ることで、土地を潤し、新しい収穫の恵みをもたらすのである。水が「呪いと祝福」を併せて担う、という水の持つ両面性が強く意識されたからこそ、水の儀礼・祭儀が生み出されたのである。洗礼式もまたそうした宗教史的伝統の延長線上にある。
バプテスマのヨハネは、後に来られるメシアについて、「自分は水でバプテスマを授ける。しかし後からお出でになる方は、聖霊と火でバプテスマを授けるであろう」と語った。儀礼としての水が、ただ水に留まらないで、「聖霊と火のバプテスマ」に結実する、というのである。この言葉の意味について、使徒言行録にペンテコステの日に、「聖霊が火のように降り、ひとり一人の上に留まり、弟子たちは異なる言葉で語り出した」と記されることが理解の鍵となるであろう。ペンテコステの日まで、恐れに満ちて部屋に閉じこもり、固く扉に鍵をかけていた弟子たちが、聖霊の風と火を受けて、新しい(今までとは異なる)言葉を語り出した、つまり、主イエスのみわざとみことばを語ることが、「聖霊と火のバプテスマ」を受けることなのである。主イエスの歩みにならい洗礼を受ける者は、水の中から上がると、主イエスによって神の恵みと慈しみを、そして何よりみ言葉を、自分の人生を通して、語り出すものとされるというのである。
「洗礼を受けたらどうなりますか」と尋ねられることがある。どうなるかは夫々の人生でいろいろであろう。どうなるかと思案するより、そこに歩み出せば、自ずとわかるというものかもしれない。「洗礼」それ自体によって、何か人生に大きな不都合や不合理が生じる、などということはあり得ない。逆に何かの実利益を生み出すこともないだろう。儀式と言ってしまえばそれまでである。
いとこに手を引かれて水に浸かり、水が身体を浮かせて、身体が軽く自由になった経験は、今も私の心に刻まれている。やはり誰かに手を引いてもらうことで、恐れが軽くなるというのは事実だろう。「一寸先は闇」の人生でも、手を引いてくれる方がいるなら「一歩先は光」であることを見出すことができるだろう。その手引きを確かに与えてくださるのも、洗礼の主なのである。