祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書5章27~37節

「正義マン」という言葉がある。2000年代後半から2010年代にかけて、インターネット上で「正義感」を過剰に振りかざす人々を揶揄する意味で使われるようになったという。特に、倫理的に問題がある行為に対して、必要以上に過剰に反応し、騒ぎ立てる人を指すそうである。コロナ禍の時に、他府県ナンバーの車が駐車していると、「よそ者は来るな」という張り紙を張られたとかいうニュースが伝えられたこともある。それで「他府県ナンバーですが、地元民です」と書かれたステッカーが売り出される、という笑えない事態も。これもまた違和感を覚える出来事だが、今にして思えば、コロナという未曽有のウイルスがもたらす、見えない脅威に、どれ程人間が振り回されたかを見るようである。

今日の聖書個所は、1節「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」、この文言からしばしば「山上の説教」と呼ばれるが、そのまとまりの中の一部分である。「山上」はマタイが設定した文学上の舞台装置であるが、主イエスが聴衆より一段高いところに座って、多くの人々がそれを取り巻くという場面設定は、読者の視覚的イメージを巧みにかきたてる効果を持っている。もちろん主イエスは屋内外問わず、さまざまな場所を宣教の場とされただろうから、こういう風景もあっただろう。但し、「幸いなるかな」という宣言から始められる一連の章句が、この通りそのまま発言されたのではなく、マタイの編集作業によって、ひとつにまとめられていると見た方が、より自然である。

しかし、今日の個所、前段からか続く一連の発言に共通する要素、その独得の物の言い方に、主イエスの実際の口ぶりがどのようであったのか、今の時代にも偲ぶことができるであろう。27節以下「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。17節から言及されている個々の事柄は別々であるにせよ、発言の仕方は、一定の形式で主張が繰り返されて行く。それは「しかし、わたしは言っておく」、という物言いである。「昔の人の言い伝えに」とか「あなたがたの聞いている通り」という具合に、今まで当たり前のこととして聞いて、常識のように受け入れてきた事柄に対して、「しかし、わたしは言う」という言い方で自分の考えを示して行く、という説法は、主イエスが実際に人々に語る(宣教)時の肉声を再現しようと試みていると言えるだろう。

ここで論われているのは、すべて「律法」の規定に関する言い伝えである。福音書には主イエスが律法学者たちと議論をしている場面が多く描かれている。エルサレム辺りから地方の村や町に出張してきて、民衆に「律法」を説いて回る巡回の教師(ラビ)が多くいたのだろう。無知蒙昧な人々が、律法の命じる規定から逸脱しないように、指導、監督しようという善意、あるいは大義名分で、彼らはいろいろな場所に出没していたのだろう。

もっとも古代の説法は、それが後代に漫才や漫談、講談と言った芸能に進化していったのだが、宗教を背景に、民衆の啓もうや教化的役割を行なう目的であったから、ただ堅苦しいお説教ばかりでなく、演芸的な要素も多分に含んでいたであろうが、聴衆の心を捉え、享ける話は誰でもできるというものではなく、大方は、極めて真面目で教条的で、こてこての「律法主義」的な色彩の強い語りであったろう。

律法学者にとっては、律法が内に秘めている神の「恵み」や「慈しみ」は、おおよそ問題ではなく、決まりを厳格に「守る」ことだけに価値を置いていたのである。もし「守らなければ」、神の「怒り」がもたらされることをひたすら恐れてのことである。しかし、主イエスは、その根源を問題として、律法の精神を徹底して突き詰めて見せるのである。21節以下「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」。つまり「殺す」ことが禁じられるとするなら、その行為の源泉である「怒り」すらも赦されず、裁かれることになる。また27節以下「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。「姦淫」が禁じられているなら、心の中の「みだらな思い」すらも厳しく罰せられるべきではないか。

この後に続く文言も、事柄を徹底的に突き詰めて、根本まで掘り下げてゆくなら、何が現われて来るかが語られる。29節以下「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。神の怒りから逃れれるために、罪を完全に回避しようとするなら、その元を全く断ってしまったらいいではないか、「元から断たなきゃダメ」ではないかと主張するのである。

律法の規定を根源まで徹底して突き詰めると何が見えて来るか、守るべき律法自体が、およそ誰にも守れないものとして、人の前に立ち塞がるのである。いわば律法自体が自らの重さによって、崩壊して行くと言ったらよいだろうか、主イエスはユダヤ教の神髄である「律法」を徹底化することで、律法を無力化し、ユダヤ教を突き抜けてしまうのである。そこから翻って、主イエスは神の恵み。慈しみを語るのである。「切り取って捨ててしまいなさい、全身が地獄に落ちない方がましである」、罪の身体を切り落として、ああこれで地獄に落ちないで済む、何と幸いなことか、などと果たして言えるのか。そもそも幸いとはそんなことか、これを神は喜びなさるのか。

コロナ禍の時に、小さな駄菓子屋を営んでいたお年寄りの店先に、こころ無い掲示が張られたという。店主は、コロナの中でも、ささやかな子どもの居場所を確保したいと店を開け、集まる子どもたちに注意を喚起し、自腹で買った「マスク」すらも無償で提供していた。「オミセ シメロ マスクノムダ」、今にして思うと、愚かな正義感であるが、主イエスの時代から今に至るまで、私たちは神の正義ではなく、人間の薄っぺらい思い上がった高慢な正義を振りかざしていることを肝に銘じたい。主イエスは、神の正義が、恵みと慈しみであることを、十字架への道を歩むことで、私たちに表されたのである。