「古いものは過ぎ去り」コリントの信徒への手紙二5章14~6章2節

グリム童話の中に「おいしいおかゆ」と題された話がある。「むかし昔、あるところにびんぼうな信心ぶかい少女がありました。少女はおかあさんと二人ふたりぎりでくらしていましたが、食べるものがもうなんにもありません。それで、少女は、(野いちごでもさがすつもりでしょうか、)郊外の森へ行きました。森の中で少女にであったのは、見たことのないおばあさんです。このおばあさんは少女の心配をちゃんと承知していて、少女に、つぼふかいお鍋を一つやりました。このお鍋は、少女が、「おなべや、ぐつぐつ!」と言うと、上等のおいしい黍のおかゆをぐつぐつこしらえます、それから、『おなべや、おしまい!』と言うと、おかゆをこしらえるのをやめるのです。少女はこのお鍋をおかあさんのとこへ持ってかえりました。それからは、親子ふたりとも、貧乏やひもじいことと縁きりになり、食べたい時には、いつなんどきでも、おいしいおかゆを食べていました」(金田鬼一訳)。

持ち主が求めるものを無償で際限なく出して与えてくれる便利な道具についての話は、世界各国に伝わる民話の中に共通して伝承されている。やはり乏しく貧しい時代に、庶民が抱いた夢が投影されているだろう。聖書の中にもエリヤ物語の中に、貧しいやもめとその子どもが飢え死にしそうな時に、預言者の不思議な業によって、いつまでも尽きることのない油の壺と粉箱についての物語が記される(列王上17章)。また主イエスにまつわる逸話として、悪魔に荒れ野で試みられた時、「これらの石がパンになるように祈ったらどうだ」という悪魔の挑戦は、こういう民話が下敷きになっている。そしてこの種の物語の結末は、不思議に同じ展開をたどるのである。

「ある日、少女の留守に、おかあさんが、『おなべや、ぐつぐつ!』と言ってみると、お鍋は、おかゆをこしらえてくれました。おかあさんは、おなかいっぱい食べたので、こんどは、お鍋にぐつぐつをやめてもらおうと思いました。けれども、なんと言ったらいいのか、わかりません。それですから、お鍋は、いつまでもいつまでも、ぐつぐつ、ぐつぐつ煮えています。おかゆがお鍋のふちからあふれてきても、お鍋は、やっぱり、ぐつぐつ、ぐつぐついっています。そのうちに台所じゅうがおかゆでいっぱいになり、家じゅうがおかゆでいっぱいになり、おとなりの家がおかゆでいっぱいになり、それから、往来がおかゆでうずまり、まるで、世界じゅうの人たちにおなかいっぱい食べさせなくては承知できないとでもいうふうでした」。

ひじょうにありがたい道具なのだが、その便利さがあだとなって暴走を始めた時に、もはや手を付けられぬほどに巨大に膨れ上がり、かえって人間の生活を苦しめ痛めつける呪いともなる、という筋書きである。これは現代の民話(フォークロア)とも言える「ドラえもん」にも受け継がれているプロットであり、極めて辛辣な現代文明への風刺になっており、どんな便利なモノであれ「限度を超えれば不幸を招く」と教えている。そのように今、私たちは「限度を超えた」ものの中に暮らし、それでうめきを上げている節はないか。

今日はコリント後書5章から6章にかけてお話しする。聖書個所が、段落の途中から始められ章を越えて6章2節まで読み上げられたことに、違和感を持たれた方もあるだろう。聖書を読む時に、どこからどこまでを一区切りにするか、というのは聖書解釈の重要な問題となる。今日の個所で言えば、14節から長々と論じられてきたことの結論が、6章2節だということである。どこまでをひとまとまりにするかで、解釈や理解も変わって来る。

パウロはここで雑多なことを論じているように見える。「(パウロは)正気でない」、「肉に従って(誰かを)知ろうとはしない」、「(キリスト者は)新しく創造された者」、「和解のために」、そして「今は恵みの時」。これら一見脈絡なく綴られている事柄はみな、この時コリントの教会の人々の間で喫緊の問題、盛んに議論されていたことが反映していると思われる。即ち教会の基礎を据えたパウロに対する不信や不満があり(訪問すると言いながら一向にやって来ない)、教会員たちが人間の繋がりばかり、利害ばかり気にして動いていること、また考えや行動が後ろ向きになり、保守的になってしまっていること、分派を作り競い合い、さらには和解や融和ではなく、事あるごとに、互いに相手を批判、攻撃するような姿勢になってしまっていること等、パウロの筆の間から、当時のコリント教会の有様や雰囲気が、ほの透けて見えるのである。そしてこれらの事柄は、現代の教会でも決して無縁な問題ではないだろう。

一言で言えば、ここでパウロが強く主張しているのは、コリントの教会の人々が、律法主義や教条主義といった古い価値観に、逆戻りしているということである。17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。新年になると教会でしばしば口にされるみ言葉である。「新しい」という用語が、二回繰り返され、強調されている。「キリストに結ばれる者」と訳されているが、直訳すれば「キリストにある人」、これは洗礼を受けているかどうかよりも、もっと広範な意味を持った言葉である。あえて訳せば「キリストの範囲内、手の届くところにある人、ふれあう人」ということになろう。主イエスを身近に感じる人なら、老若男女、だれでも「キリストにある」ということになる。

さて肝心の「新しい」であるが、それに当たるギリシア語には、2種類の用語がある。「ネオス」と「カイノス」である。そして、ここではネオスではなくカイノスという用語が使われている。ネオスは、英語で “new(新しい)” の語源となった単語である。しかし、カイノスのほうは、そのままで英語の単語には受け継がれなかったようだ。ギリシア語の「ネオン」 という言葉は、たとえば、毎日のように使い、汚れものを洗ってくれた洗濯機が、「ガタンガゴン」と近ごろ大きな音を立てるようになり、ついに動かなくなってしまった。今更、たらいと洗濯板に戻るわけにもいかず、「新品に買い替える」というような場合に用いる用語である。とにかく、全く違うものに取り変えてしまうことである。

他方、カイノスという言葉のニュアンスで、私たちがよく知っている英語はないのかというと、“fresh” という言葉がそれに近いかもしれない。パウロの時代の最初の教会は、「家の教会」であり、誰か信徒の家の広間を使って、集会をしていた。その後の時代になると、教会独自の建物を取得するようになるが、新しく教会を建築したのではない。古くなり使われなくなった公会堂(バシリカ)や公民館の建物を譲り受けて、教会に改装したのである。現在でもそうした教会は、幾つもある。この近所で薬屋さんが葬儀場に改装された。これはある種の進化か?私がかつて出席していた教会は、戦争中に空襲で焼けた境内地に、進駐軍の払い下げのカマボコ兵舎を譲り受けて教会堂にして、しばらくの間礼拝を守ったという。その建物の元々は、大げさに言えば戦争のためものだが、礼拝堂として用いられるようになった、というのは、キリスト教会らしくはないか、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」如く、全く新しい目的、新しい役割をもって、その建物は生まれ変わったのである。但し、夏の暑さ、冬の寒さは並大抵ではなかった、と古い会員の方々が口にしていた。

パウロは言う「誰でもキリストにあるならば、その人はフレッシュに造り変えられた者だ」。たとえ古くても、主イエスによって、人はフレッシュな存在に変わっていくことができる。今も昔も同じ人であるから、相変わらず罪も犯すし、過ちも重ねる。しかしそういう人間が、古い状態から新鮮な、真新しい状態に変えられるというのである。丁度、主イエスが最初の弟子を招かれた時、彼らは「漁師」であったが、その人たちに主はこう言われた。「あなたがたを、人間を取る漁師にしよう」。シモンやアンデレたちは、漁師であることに変わりはない。突然、王様や皇帝になって上に立って人々を支配する訳ではない。しかし主イエスによって、「魚」を取ることから、「人間」を取ることへと、目的や役割が変えられたのである。

人間はこれまでこの世界で生き抜いていくために、知識と技術を増し加え、たくさんの便利な機械を生み出し、莫大なエネルギーを必要とするようになった。もはや後戻りはできないと、さらに多くのエネルギーの確保、豊かな生活を防衛するためと称して、敵を殺す武器をせっせと開発し、ついに大量破壊兵器、その最たる核兵器をも創り出したのである。もうそれで「おかゆ」は十分かと思われるのに、留まることを知らないエネルギー消費の増大、莫大な軍事費の増大に、うめきつつ、ただその道をつっ走るしかない、止まったら破滅とばかりに走り続けているのではないか。

グリム童話はこう結末を語る。「どうもたいへんなことになったものですが、さてどうしたらいいか、どこのだれにもわからないのです。やっとのことで、それでもまだ、おかゆのおしこんでこない家が、たった一軒のこっていたときに、少女がもどってきて、たった一言、『おなべや、おしまい!』と言いましたら、お鍋はぐつぐついわなくなりました。でも、この町へかえってこようとするものは、ぱくぱく、ぱくぱく、(おかゆで埋もれた)自分の通路を食べあけなければなりませんでした」。

6日に行われた「広島平和記念式典」で、二人の小学生によって語られた「平和の誓い」は、この言葉で結ばれた、「One voice.たとえ一つの声でも、学んだ事実に思いを込めて伝えれば、変化をもたらすことができるはずです。大人だけでなく、こどもである私たちも平和のために行動することができます」。グリム童話の「おしまい!」の一言と二重写しになって響いてくるようだ。大人たちは誰も、おかゆの氾濫を止める術を持たず、ただおろおろしている中に、子どものひとつの声が響く、「おなべ(核兵器)や、おしまい」。「あの日の出来事を、ヒロシマの歴史を、二度と繰り返さないために、私たちが、被爆者の方々の思いを語り継ぎ、一人一人の声を紡ぎながら、平和を創り上げていきます」。私たちは道や家、村や町にあふれた「たくさんのおかゆをぱくぱく食べ上げて」、幸いの居場所へ道を開く必要がある。福音書に主イエスが十字架を担いながら、悲しみの道をよろよろと幾度も転びながら歩まれたと語られる。私たちの歩みもその通り、よろよろよろけながらの足取りかもしれないが、この不甲斐ない歩みの末に、十字架の死を超えて神のまことが現わされるのである。「今や、恵みの時、今こそ救いの日」、神のまことは、今日に関わっている。今日、少女の発した「おなべ(核兵器)や、おしまい」という「ことば」を心に聞くことはできるか。「今や、恵みの時、今こそ救いの日」。神の誠実は、今日に関わっている。私たちの誠実(信仰)も、明日明後日、10年後ではなく、今日、この日に関わるのである。