「君子は豹変(ひょうへん)す」という成句がある。中国の『易経』がその出典とされるが、その意味についてこう説明されている、「『君子』とは、徳行のそなわった人、学識、人格ともにすぐれていてりっぱな人のこと。『豹変』とはヒョウの毛が季節によって抜け替わり、斑文も美しくなるということで、このヒョウの毛が抜け替わるように、君子は時代の変化に適応して自己を変革するという意だという。すなわち、本来の意味は、君子はあやまちを改めて善に移るのがきわめてはっきりしている、君子はすぐにあやまちを改めるという意味になる」(『日本国語大辞典第2版』)。
「豹変」とは元々は、良い方に変わる意であったと説明されるが、それにもかかわらず、昨今では「悪い方に変わる」という意味でつかわれる方がより目に着くようになった。即ち「節操なく、ころころと変わり身が早い」という意味で用いられるのであるが、それは人間が良い方に変わるよりも、悪い方に変わることの方が多いということか、それとも世間は、誰かのスキャンダルをいつも虎視眈々と探しているということか、世知辛い世の中である。-
使徒言行録9章は、この書のひとつのクライマックスとも言うべき個所である。サウロ/パウロが「豹変」する画期的な場面が記される。1節「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」とダマスコ途上にあった迫害者に、突如生じた出来事、この一事によって、迫害者が使徒に「豹変」するのである。20節以下「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。『あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか』」。
この使徒となった迫害者について、「豹変」と表現するのは、「すぐあちこちの会堂で、イエスのことを宣べ伝えた」と伝えられることによる。他の誰かに相談することも教えを受けることも、作戦を練ることもまったく頓着しないで、すぐに行動を始めるのである。よく「考えてから走り始める」か、「走った後に考える」のか、「誰かの指図なしには何もしない」とかステロタイプに人間の行動傾向が論じられるが、ことパウロについては、「走った後で」派の者であるような印象を受ける。その結果、21節「これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。『あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか』、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた」と伝えられる。無手勝流で始めた宣教であり、彼の「豹変」に衝撃を受けた人々も多くあったが、「うろたえる」と用語に端的に示されるように「人々の間に混乱、擾乱を引き起こし、何が何やら評しようがない状況」が生じたのである。
私たちは彼の「豹変」に驚かされるが、心理学者の河井隼雄氏によれば、「人間が変化する場に立ち会い続けていて、まず思うことは、『一番生じやすいのは、180度の変化である』ということである。その好い例は、アルコール依存症の場合だろう。大酒飲みの人が、ある日から酒をぴったりと止める。皆が感心していると、ある時にまた逆転してしまう。つまり、180度の変化が生じるのである」(『心の処方箋』)という。「うろたえる」の内実は、「豹変」と「逆転」の間で、人々はあっけにとられたということではないか。
彼の「豹変」は、人々の間に「当惑」だけをもたらしたのではなく、さらに運命に暗雲をももたらすのである。23節「かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだ」という怪しい動きも生じて来たのは、さもありなんと思わされる。人は変化を求めるが、やはり保守に拘泥するのは、変化によってもたらされる事態を内心恐れるからである。想定外の出来事について、人は非常に危惧するのだが、人生、ある意味では「確実」と言えるものが本当にあるのか、多くはそう思い込んでいるだけである。但し、いくら保守でも、変わるものは変わって行くし、それに対して否応なしに負わされる事柄はあるというのが、人生の普遍の姿である。「これで大丈夫、まったく安心」というお墨付きなどはないのである。
もっとも、彼も全くなりふり構わず自分勝手ではまずいと判断したのは当然で、26節「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとした」と記されるように、エルサレム教会の先輩諸氏たちに、何はともあれ、仁義を通そうという気持ちを起こしたのである。しかし物事は思い通りには進まない。「皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」とある。ところが救いの手は自らの思いを超えているもので、「バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった」。
ここでサウロ/パウロの「豹変」について、その原点が何であるかを、よく知る必要があるだろう。そもそも「豹変」は、彼自身の内側に生じた出来事であるにしても、それは外から与えられた働きゆえであるという事実である。3節以下「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる』」。迫害者を「豹変」させたのは、自らの良心でも反省でも、研鑽でも確信でもなかった。ただただ主イエスが彼の人生に手を伸ばされ、語りかけ呼びかけたというただ一点である。自らの力での変化ならば、再び自らさらに変化するだろう、元の木阿弥である。ところが、「豹変」は、他からの働き、ただ主イエスの言葉によるのである。これが彼の人生を大きく変え、彼を方向転換させてゆく原点となった。
私たちもまた、とうてい君子ではないにしても「豹変」させられたひとりである。「ヒョウの毛が季節によって抜け替わり、斑文も美しくなる」と言われるが、主イエスの言葉は、魂の装いを新たにし、その斑紋(生きるメリハリのことか)を鮮やかにする。そういう出会いを与えられて、今、生かされていることをしみじみと思うのである。