落語に「三方一両損(さんぽういちりょうぞん)」という噺がある。江戸時代、名奉行の誉れ高い大岡越前守の裁定として伝えられる逸話が元であるという(真偽のほどは定かではない)。左官の金太郎が道端で拾った大枚三両入りの財布を、正直にも、落とし主の大工の吉五郎に届けるのだが、頑固者の吉五郎、「懐から勝手に出て行ったものは、もはや自分の金ではない」と取りつく島もなく、他方、金太郎も「てめえの物でない金は受け取れねえ」と意地を張る。この意地の張り合いが奉行所にまで持ち込まれ、かの名奉行は自らの懐から一両を出し、つごう四両とし、金太郎と吉五郎に二両ずつ与えたことで、三者とも一両ずつ損をする形となり、見事に喧嘩を収めたという筋書きである。本来得られたはずの利益をそれぞれが分け合うことで、全員がわずかな損を受け入れる代わりに、全員が納得し調和を得る知恵の見事さが語られている。
「皆が少しづつ損をして、皆の和や納得を得る」という方策は、確かに頷けるところがある。「租税制度」等はそうした意識を軸に、成り立っているとも言える。逆にたとえ自分が大きな損をしていなくても、ある一部の人たちだけが優遇され、いい目を見ている、という意識は、自分たちが不当に扱われているという不条理な思いを増大させ、不満を焚きつけ、それが極度に高まれば、暴動や紛争をも引き起こす原因ともなる。現在「~ファースト」という喧しい掛け声は、人間の内奥を揺るがす扇動にもなり得るのである。
哲学者のバートランド・ラッセルは、その著『幸福論』のなかで次のように述べている。
「通常の人間性のあらゆる特質のなかで、嫉妬は最も不幸なものの一つである。嫉妬深い人は単に他人に不幸を加えようと望み、また罰せられることなしになし得ることなら何でもやってのけるだけではない。さらに自分自身もまた嫉妬により不幸にする。嫉妬深い人は自分の持っているものから楽しみを取り出すかわりに他人の持っているものから苦しみを取り出す」。現代の私たちの生活に、「嫉妬」という情念が、深く印を押している現実を想い起こさせる言葉である。この思想家は「嫉妬」が最もやっかいな不幸と見なしているが、それはキリスト教が伝統的にこれを「七つの大罪」のひとつに掲げていることからも、知れるであろう。
今日の聖書個所では、パウロ一行の宣教によって、テサロニケとベレアにおいて引き起こされた騒動について語られている。テサロニケ(テッサロニキ)は、現在のギリシアではアテネに次ぐ有数の都市であるが、この町がバルカン半島で経済の中枢として傑出するようになったのはローマ帝国の統治下にあった時代である。パクス・ロマーナと都市の戦略的な場所により、ローマとビザンティン(後のコンスタンティノープル、現代のイスタンブール)の間をエグナティア街道が通じており、その中継地としてテサロニケは機能し、交易が促進されたのである。離散のユダヤ人たちの多くがこの町に移住し、後のオスマン帝国時代には、半数の住民がユダヤ人で、彼らは商業に従事していたと伝えられる。パウロの時代には、すでに多くのユダヤ人たちがこの町に住んでおり、シナゴーグが市民の文化的交流の場(フォーラム)となっていたと思われる。住民は他所の地の情報を熱望していたから、パウロはそれを手掛かり足掛りに活動したのである。4節「それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った」という。ところが5節「ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した」。例によって、宣教の実りと共に、「迫害」という困難な事態が呼び起こされたのである。「活動」というものは、何らかの波紋を生じさせる。物事は「ふたつよいこと、さてないものよ」なのである。否定的な反応が生じるのも、また強いインパクトがあったことのしるしなのである。何の波風も立たないというのは、全く問題にされていないことでもある。
さらに隣町ベレアでも同様な反応が起きる。13節「テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた」。町の信仰者たちのおかげで、パウロ一行は身の安全を計られ、事なきを得るのだが、旅行とは名ばかりの散々な道中である。
このユダヤ人たちの否定的な反応を生み出したものは、「ねたみ」嫉妬によるものだと著者はコメントしている。ここで用いられているギリシア語の「嫉妬ζήλια」は、英語の“jealousy”の基になった言葉で、「嫉妬、羨望、欲望、強い競争心、対抗意識」等を意味する用語である。「ねたみ」は他人が持っているものを欲しいときに感じる感情で、例えば、自分よりも仕事の成果をあげたり、豊かな暮らしをしている人を見たときに生じる。また他方、それは自分が持っているものを奪われる(かもしれない)ときに感じる感情であるとも説明される。つまり既得権が侵される(た)ように思われる時に現れる感情である。
ではなぜ「ユダヤ人」がねたんだのか、社会心理学者レオン・フェスティンガーが提唱した「社会的比較理論」では、人間は自分を評価する際に絶対的な基準ではなく「周囲との相対比較」に頼る傾向があるとされる。とりわけ、自分と似た条件にある人との比較は、自身の価値を測るために強く用いられるのである。そのため、遠い存在の成功よりも、身近な人の小さな差のほうが心を揺さぶられる、というのである。パウロが口にする言葉は、元々、ユダヤ人ナザレのイエスに遡り、パウロ自身も回心したユダヤ人なのである。そして彼らの宣教は、ユダヤ教からの分派とも言うべき活動であり、そうした新参者が自分たちよりも人気を博し、人々の共感を勝ち得るというのは実に腹立たしい、という思いが湧き起こるのももっともなことであろう。「身近」だからこそ「ねたみ」も生じるのである。
旧約の十戒の中にはこう記される。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」また34章14節には「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである」(共に口語訳)。旧約には、神の「ねたみ」について語られる。本来、それは神というはるか遠く手の届かない大きな存在からすれば、地に生きる卑小な人間に対して、まったく問題にならない、生じない感覚である。ところが旧約では、イスラエルに対する神のこころとして、「ねたみ」が語られるのである。これをどう考えたらよいか。新共同訳では、あまりに感情的色彩が強すぎると判断したのか、「熱情」と訳出されている。ともあれ「ねたみ」も「熱情」も、「身近」な所に働く強い思いである。卑小なイスラエルに、神はここまで身近な思いを吐露されている、その神の心の思いのたけの強さが、ここに表明されているのである。「ねたむほどに愛しておられる」(ヤコブの手紙4章5節)、「三方一両損」では、名奉行もまた身銭を切って、和解の仲介を果たすのである。神もまた,ひとり子を十字架に付けて、自腹を払って、罪の赦しを果たされるのである。「ねたみ」の神にふさわしい裁定である。この神の心をいつも思い起こしたい。