「どのように倣えば」テサロニケの手紙二3章6~13節

「神は時間を造られたが、悪魔は時計を造った」。バルセロナのサグラダ・ファミリア聖堂の主任彫刻家である外尾悦郎氏の言葉である。1882年(明治15年)に着工され、140年以上経った現在もなお建築工事が続いているが、設計した建築家ガウディの没後100年にあたる2026年に完成予定と言われていた。しかし、コロナ禍により(観光客が減り)大幅に建築が遅れてしまい、公式発表された内容によると、2030年にはめでたく完工する見通しだと言う。「いつ完成するのか」というせっかちな巷の声への応答である。神は悠久の時の中に出来事を行われるが、「コスパだ、タイパだ」と、人間は目先の時間ばかりせっかちに追いかけている。否、追いかけられている

聖書に「時間の創造」について、はっきりと語られてはいないが、神が時を定め、支配され、その御手におさめられているとの文言は、いろいろな個所に言及される。創世記1章の創造物語に、「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」、この文言が「時間の創造」を語るものとして理解されて来た。

かの彫刻家はこう語る「建築物の設計は、ある種の祈りです。石を穿(うが)ち、すぐれた彫刻作品をつくろうとすることも、彫刻家独自の祈りの方法です。医者は命を救うために検査をし、薬を処方し、手術をしますが、それも医者の祈りの手段なのです。どんな職業でも、祈らない者によい仕事はできません。人間は、両手に抱えきれないほどたくさんのものを持っていると思いこんでいます。全世界を、いや宇宙さえも所有していると。しかし本当は、この世に存在するものはすべて、恵み与えられたものです。自動車、飛行機、コンピュータなど、じつに多くの品々を発明してきたわたしたちは、人間は創造者であり、世界の主だと思っていますが、実際には、わたしたちの暮らしを大きく左右するものは自然なのです。太陽、水、空気、大地……。それらすべては、本当は与えられたものだという真実から、わたしたちは目を背けようとしています」(世界現代美術作家情報サイト「外尾悦郎」)。時間というものは、まず祈って、感謝して、与って、有難く用いる、という謙虚な姿勢から、人間の所有物として、それを自分勝手に気ままに利用しようとすることに変化した。その結果、却って時間に追いかけられ、追いまくられ、窒息しそうになっている。「悪魔は時計を発明した」、ギフトとしてではなく、生産性、効率性でしか時間の価値を計れなくなってしまっている。

今日の聖書の個所に、6節「怠惰な生活」という言葉があり、これに呼応して10節「働きたくない者は、食べてはならない」と戒められている。「働かざる者、食うべからず」。この標語、政治的スローガンを世界的に広めたのは、旧ソビエト連邦の指導者、レーニンである。そして 1934 年ソ連憲法の中に,「働かざる者食うべからず」の原則が入ることになる。しかし、この理念は社会主義国家だけのものではなく、この国の憲法にも、国民の三大義務の内のひとつ「勤労の義務」が語られている。とはいえ、世界各国の現行の憲法等に、「勤労の義務」を明記している国は、極めて少ないのだという。「労働」について規定する憲法は数多い、ところが「勤労」、勤勉に働かねばならないことをはっきりと明文化している国は、この国と、中国、韓国くらいなものだと言われる。

レーニンの時代、この「働かざる者」とは,怠けている人も含むが,基本的には金持ちのことであった。私有財産をふんだんに蓄えて、働かなくても生活に困らないで、不労所得、苦労せず日ごとの糧を得られるような金持ちや貴族等の特権階級はあるべきではない、という共産主義的原則なのである。それでは、現代のこの国に住む私たちは、この聖書の言葉をどう読み、どう理解するだろうか。日本国憲法第27条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」。ここには付帯条件(他国の法には、より具体的な条文が付されている)が一切記されていない。身体が不自由、あるいは病気の時、そして何歳までという年齢について、あるいは報酬について。もちろんこの規定もまた「すべての国民は健康で文化的な生活を営む権利を有す」という条文に収斂するのであろうが。

そもそも皆さんは「怠惰」に生きているだろうか。それは「私はだらしない人間で」とか。「家の旦那な縦のものを横にしようともしない」という評価が口にされることはあるだろうが、決して「怠惰」に生きているとは思っていないだろう。これはと決めてやり始めても、例えばダイエットだったり、運動だったり、志や向上心と呼ばれる事柄、そうしたことを始めて、その成果が上がらなかったり、結果が出ない、中途半端で放り出すということはあるだろう。たとえ働くのを心から楽しめていない、働くことで喜びが生まれて来ない、というつらい思いに付きまとわれて、食うために仕方なしに働くというのが実態であるとしても。決して「怠惰」ではなく、かえって「健気」で「真面目」なのである。

問題はこの「怠惰」という聖書の言葉自体にある。「働こうとしない者」というが、初代教会は、縦割り、横割りに、きっちりと分断された均質的な集団ではなかったのである。これは古代の集団としては稀有な人員構成であったと言えるだろう。昔の人間集団は、同じ身分、同じ仕事、同じ階層の者たちが、個々に一つ所に集まって生活を営むという具合であった。農民、商人、職人、武士や支配者層の者たちが、それぞれ別個のところで暮らしているのである。江戸の町には、今で言うフリーター、日雇いで暮らす者も多く、生活費がなくなると日銭稼ぎをして生活を営んでいたのである。生活は不安定かもしれないが、ではそういう人々を、「怠惰」と評するのか。

教会の特徴は、現代でもそうだが、「種々雑多な人々の群れ」と称するのが一番ふさわしい。ある一定の社会階層や立場の人々で構成されていたなら、まとまりはよく、一枚岩のように、統一性は取れていたろう。もちろん、家庭を開放して集会を開けるくらいの資産家や会社の経営者、学者はいただろう。 他方、身寄りのないお年寄り、捨てられた子供、逃亡奴隷も教会の群れの一員であった。総じて金持ちとは言えない、どちらかと言えば貧しい部類に入る人々がほとんどで、職業を持ち、毎日の仕事に精を出しつつ、口を糊し、日曜日には教会に集っているというのが、実情だったろう。

だから「働こうとしない者」とは、教会のほんの一握りの金持ち、奴隷や召し使いに労働を全ておっかぶせて、自分自身は遊び暮らしている、そういう身分の人を指しているのではないだろう。そもそも「怠惰な生活」という言葉の翻訳が問題なのである。直訳すれば「無秩序に歩む者」という意味である。口語訳、新共同訳、協会共同訳はそろって「怠惰」と訳しているのだが、用語自体に「怠惰」という意味合いは薄い。文語訳は見事に直訳している「みだりに歩んでいる者」。「地に足のついていない生活をしている者」「ちぐはぐな生き方をする者」という風に訳せば、用語のニュアンスが生きるだろうか。

怠けているのではないとするなら、「働こうとしない者」はなぜ働かないのか。おそらく信仰上の問題がここには強く反映しているのだろう。もうすぐ世の終わりが来る、終末がもたらされる。そんな切羽詰まったこの時期に、この世のことに一生懸命になってどうするのか。世俗のことに懸命になったとしても、この世がひっくり返ってしまえば、人の生きる努力はすべて水の泡である。それならば仕事になどかまけてなどいないで、祈りに精を出すべきだ、聖霊に満たされて、もっともっと篤い信心に精を出すべきだ、と極端な主張をする者たちが、少なからずいたのだろう。しかし信仰的熱心さは、世俗のすべてのことを手放して、捨ててしまうことを意味するのだろうか。

7節「あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした」。怠惰に生きないように、私たちに倣えと言う。何をどう真似しろということなのか。

外尾氏はこう語る、「サダラダ・ファミリアの建設に従事する人々についてガウディが残した文章がある。それによれば、『この世に存在するものは、必ず何かの役に立っている。人それぞれがかけがえのない才能を持っており、すべての人が神の似姿としてつくられている』。よほど悪意をまき散らすような人間でないかぎり、ガウディは誰にでも、聖堂の建設現場という共同体に居場所と仕事を与えた。彼自身もまた、自由な一個人として、明るく大胆に仕事を進める手本たろうとした。その過程で、徐々にガウディの人間性も、精神面をより重視する方向へと変わっていった」。聖堂を造るにあたって多くの人、才能のある人もない人も、種々雑多な様々な人を受け入れて、共に仕事をした、それが当のガウディをも変えて行ったというのである。その働きを促した根源とは何か。

「わたしたちは小さな子どもです。見た目は大人でも、本物の子ども以上に子どもなのです。親と手さえつないでいれば、子どもは安心できます。行き先がディズニーランドであろうが、動物園であろうが、近所の小さな公園であろうが、満足なのです。でも、もしそこにひとりぼっちで置き去りにされたらどうでしょう? 不安で不安で仕方がなくなるはずです。すぐに泣きだし、必死に親を探すでしょう。その子どもにとって最大の望みとは、親を見つけ出すこと、親がすぐそばにいてくれることだからです」。

教会は「キリストのからだ」と言われる。これは集う者ひとり一人のすぐ側に、主イエスがおられる、という意味であるし、情緒的に言えば、主イエスのみ腕に包まれる、ということである。バルセロナの聖堂、ファミリアの教会を共に建てることで、そこに集う人たちが「神のかたち」として「必ず何かの役に立っている。人それぞれがかけがえのない才能を持って」生かされていることが表わされた、共に働くことで、というのである。

「子どもであるわたしたちは、社会もしくは世界といってもよい親、つまり『われらが父』につねに手を引いてもらう必要があります。そうして初めてやりたいことを満喫し、すべての自由と喜びを享受できるのです。親さえそばにいてくれれば、怖いものはないのですから。しかしひとたび『われらが父』を見失えば、あたりは恐ろしい闇と化し、泣きじゃくるしかなくなるのです」。「怠惰」とは、手を引いてくれるものなどなくても、自分の力だけで生きていけると思う、心の鈍さのことだろう。人は手を引いてもらい歩き始め、手を引いてもらい、去って行く。その手を引いてくださる、見えない方が、あなたの隣におられるのである。