毎朝、テレビからこんな歌が流れて来る「毎日難儀なことばかり/泣き疲れ眠るだけ/そんなじゃダメだと怒ったり/これでもいいかと思ったり/風が吹けば消えそうで/おちおち夢も見られない」、この10月からの朝ドラのオープニング曲『笑ったり、転んだり』(佐藤良成氏の作詞・作曲)の一節である。秋が深まり、日暮れが速まり涼やかな風が吹くこの季節には、身にしみて感じられる。考える暇もなく忙しく日々を過ごし、自分が、ある日ふっと消えてなくなってしまうような実体のなさ、まるで幽霊のような、そうした感覚が、現代の人間の生きる実感なのだろうか。一体どこに向かって行けばいいのか、日々つのる寒さのせいもあって、ついつい心が内向きになる。
聖路加看護大学院長であった日野原重明氏がメーヌ・ド・ビランというフランスの哲学者(1765~1824)の言葉を紹介している。「悩まない時には、人は自分自身をほとんど考えない。病気あるいは、反省の習慣が我々の内に下りてゆくことを我々に強いることが必要だ。自分が存在していることを感ずるのは、ほとんど健康でない人だけだ。健康な人は、哲学者でさえも、生命とは何かを探求するよりも、生を享楽することに没頭する。それらの人たちは、自分が存在していることに驚くことはほとんどない。健康は我々の外の事物に連れてゆき、病気は我々を我々の内に連れ戻す」。興味深いのは、普通、健康で元気ならば、外に出て、自分の生きたいところに自由に行ける、しかし病気の時には、ベッドに横たわるだけで、全くの不自由を強いられる。ところがかの哲学者は、「病気は我々を我々の内に連れ戻す」のであるという。「連れ出される」ということは、今まで見えなかった光景が見えて来る、気づきもしなかったことが、目の前に現れて来るということである。それは元気でも、病気でも、どちらにも表れる事柄なのであると。
日野原氏はこう言葉を添える。「この言葉以上に、臨床を始めて四〇年も経った私に大きなショックを与えた言葉はなかったのであった。人間というものは、過ちを犯す、あるいは罪を犯すことにより初めて本当の自己発見をする。ビランの言葉の意味はそれと同じように、人生の中での重大な気づきなのである。まさに人間は健やかである間は、それを当然と考えて、健康の進化、ありがたさを本当に感じることができず、ただただ仕事や家庭のことに追われて毎日毎日を一途に過ごしてきた人には、病人の経験がないので、健康のありがたさについては全く気づかず、感謝の気持ちもなく、毎日の生活に流されて生きているのである。病気にかかった人間は初めて自我に立ち返り、今まで外のことばかりに気を奪われていて、自分の中の心の問題や恵まれた生を与えられていた、この健康のありがたさについてはまるで、念頭にはなかったのである」(「教育学術新聞1168号「ビランの言葉」2007.4)。
創世記15章アブラハムの物語の一節から話をする。「神の約束」という表題が付せられている。聖書学では「アブラハム契約」と呼ばれる個所である。旧約聖書、新約聖書の「約」の字は、「契約」の意味である。新約は主イエス・キリストの契約、十字架に付けられる前の晩、最後の晩餐の席上で「これはわたしの血による新しい契約である」と口にされた言葉に由来する。他方、旧約には、さまざまな折りに交わされた、神とイスラエルの契約の場面が語られている。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、時代は下ってダビデらと神が交わした諸々の「契約」が、繰り返し語られている。それゆえ「約」なのである。もっともキリストの光によって、神の救いの出来事を見る私たちにとっては「旧い」のであるが。
今日の個所では、古代の契約の流儀が詳細に伝えられている。9節以下「主は言われた。
『三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった』」。次いで17節「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた」。
契約を交わす際には、犠牲の動物を裂いて、祭壇の上に吊るす。そして契約の当事者同士が、連れ立って、その犠牲の供え物の血が滴る間を、共に歩むのである。一説に、もしどちらかが契約に違反すれば、この供え物のように八つ裂きにされてもかまわない、という象徴行為だという。だから契約を「交わす」という言葉は、原意は「切る、裂く」という言葉が基になっている。福音書でも、主イエスもまた、自らの体を裂かれて、血が流され、私たちと契約を結ばれたのだ、という理解がなされている。
但し、アブラハム契約は、非常に理想化された契約であると言えるだろう。普通なら「契約」は相互に守るべき事柄を一つひとつ書面に記し、両者が確認、了承のサインをして、共に契約のしるしとして祭儀を執り行うのが、通例である。ところがアブラハム物語の「神の契約」は随分、異質な形態を取っている。神が一方的に、アブラハムへの恩恵の付与を宣言し、大いなる祝福を与えるのである。1節「『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』。」そして5節「『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる』」。これに対して、アブラハムには何らの義務をも命じられていない。何という大盤振る舞いであろうか。ただ「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記されるのみである。
そもそも「契約」とは、双方の守るべき義務、と与えられる恩恵、御恩と奉公とが明らかにされて、初めて成立するものである。この契約は、「契約」とはいうものの、神の独り芝居のような、一方的な恵みの付与、恩恵の授与である。裂かれた動物の間をくぐる契約儀礼も、神だけがそのように振舞っている。この時アブラハムは、何と「眠っている」のである。しかしこの契約は、主イエスが十字架によって明らかにしてくださった「新しい契約」の先取りともいえる伝承である。人は神の恵みに対して何も為し得ない、決して返礼をすることは出来ず、ただただありがたくその一方的な恵みをいただくしかない、ということである。それこそ「信じる」ということに他ならない。そしてその恵みは、眠ったところでもたらされる。「眠り」とは、人にとって最も無防備で、安心している状態でなされるものである。
もう一つ、今日の個所で興味深い点は、この恵みの契約が、夜、闇の中で成されているということである。12節「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」、さらに17節「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた」。「恐ろしい大いなる暗黒、暗闇に覆われる」という表現は、古代の夜の有様を端的に表現しているであろう。「鼻をつままれても分からない」という日本語のユーモラスな言い回しがあるが、光の全く見えない闇にひとり置かれるということが、どれ程の恐れを呼び覚ますだろうか。「そろそろ戻ろうかと思いつつ足を進める。不意に出現する何かに怯える。動物よりも人が出てくる方が怖い」。何がやって来るのか、皆目見当がつかない。
5節「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい』。主は彼を「外に連れ出して」、「天の星」を指し示して、語られるのである。これは単に外界、外の世界というばかりではなくて、内面、心の深奥、魂の深みをも示唆されているだろう。人生行路において、夜の真っ暗闇の中に置かれるということは、これから私の歩む人生の道がどうなるか、内も外も暗闇の中にうごめくと言う状態を指すのではないか。人間の力では、人生一寸先も見通せないのである。実際、神はアブラハムに、その子孫がエジプトで奴隷として苦しむことを不気味にも予告をしている。人間はつい先の未来を知る由もない。それこそが、「恐ろしい大いなる暗黒、暗闇に覆われる」人間の営みなのである。だから人間はその闇の中で呻き、手探りで、身体を伸ばし、不安を抱えて一歩を歩みだすしかない。
しかしアブラハムが告げられたように、大いなる恐ろしい暗闇の中で、自分を見つめていてくださる方がおられ、出会ってくださる方がおられるのである。そしてその方は、暗闇の中で呻く私に、恵みの約束をもって導いてくださる、というのである。「恐れるな、アブラハム、わたしはあなたの盾である」と宣言される神である。
「『健康は我々を我々の外の事物に連れてゆき、病気は我々を我々の中に連れ出す』というビランの言葉を私は皆さんに贈りたい」、と日野原氏は語る。最初に紹介した朝ドラの主題歌、「何があるのかどこに行くのか/わからぬまま家を出て/帰る場所などとうに忘れた/君とふたり歩くだけ/落ち込まないで諦めないで/君のとなり歩くから/今夜も散歩しましょうか」、歌の末尾である。誰か散歩相手が居れば、なぜ生きるのか、どうなるのか本当は分からなくても、落ち込まないで諦めないで、切羽詰まらず、歩けるだろう、と詠われる。「君のとなり」に、いつも共に歩んでくれる主がおられるのである。この方こそ、私たちの「契約の主」、十字架で血を流された主である。