降誕前節を迎え、教会ではクリスマスの計画が話し合われ、準備がなされている。外構にイルミネーションを灯し、道行く人にクリスマスの訪れを告げる、という慣わしは、宗教改革者、マルティン・ルターに遡るとされている。待降節の頃、日もとっぷりと暮れ、夜闇の中に家路を急ぐ彼は、黒い森の木々の上に輝く数多の星々の瞬きに、心を打たれた。この美しさを家族にも伝えたい、この熱い思いが、クリスマスツリーにたくさんの蝋燭を飾り、それに火を灯して主イエスのご降誕を待ち望む、という風習の起源なのだと言う。
冬の凛とした清涼な空気は、空の星々の光を鮮やかに地上に届ける。かつて田舎に住んでいた頃、深夜、家の庭にシートを張って寝転んで、何某かの流星群を観察したことがある。無数に瞬く流れ星を目で追って、子ども達は夢中で歓声を上げていた。ところが地上の空気が汚れ、天空の見晴らしも甚だ芳しくない、ということで、現代では天体観測のための望遠鏡を宇宙に打ち上げて、汚れた大気に邪魔されず観測を行う「宇宙望遠鏡」からの映像が地上に送られてくる。ジェイムズ・ウエッブ宇宙望遠鏡は、160億光年向こうにある深宇宙の光を届けてくれるのだが、その淡い光は無数の星々の「重力レンズ」によって歪められている。160億年かかって今、地球に到達しているその光を、私たちの肉の目は捉えることはできないが、昔の光は今もここに降り注いでいるのである。
今日の聖書個所は、一般に「アブラハム契約」と呼ばれる伝承の一部分である。「これらのことの後で」と語り出されるが、前章では「王たちとの戦い」「ロトの救出」「メルキゼデクの祝福」と題される幾つかの伝承が、つなぎ合わされ物語が紡がれている。王(とはいえパレスチナのいくつもの都市国家の首長たちであるが)との小競り合い、そしてその騒動の中に窮地に陥った若い甥のロトの救出劇、そしてパレスチナの諸都市の中で別格の地位を有していたエルサレム、その聖なる都を司る王、メルキゼデクとの邂逅、彼の名の意味は「義なる王」であり、なかば伝説化された人物、「至高の王」であったろう。15章において語られる「アブラハムの契約」の先触れとして、この地上の王たちの中での至高者が、アブラハムに祝福を与えるのである。これは後代、エルサレムを中心に統治したダビデ王朝の正当性の先取り(その論拠)とも言うべき出来事である。ともあれアブラハムの縦横無尽な活躍がここに描かれるのである。さらに族長としての豪胆無比な振る舞いと共に、対外的発言の(外交上の)細心さ、巧妙さも持ち合わせていることが描かれていることに注目したい。彼はソドムの王に言う、23節「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」。今後の足かせとなるような人間的な柵(しがらみ)を、注意深く拒絶するのであるが、同時に経営的な手腕の確かさをも示すのである。「わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください」。一族の長としての面目躍如たるアブラハムの活躍が記されている。
ところが「舞台」というものは、「動」だけで成り立つのではなく、「静」によって車の両輪のようなバランスを生み出すのである。次幕、15章では彼の活動的な側面から、内面的な世界の拡がりを伝える物語が展開されるのである。1節「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」。「幻の中」での出来事、聖書文学は、父アブラハムと呼ばれたイスラエルの祖である比類なき人格の、静と動、外と内なる世界を隈なく描き出そうとする。ひとりの人間の真実は、仕事や業績といった外面だけではなく、内的世界にも豊かに表されるものだからである。但し、聖書が語る「内面」とはもっぱら神との関係の事柄である。おそらくそれは人間の内面の最奥の部分、魂の深みで生じるものであり、それは「神とわたし」とが向き合い、語り合い、みこころがあらわにされる所であるがゆえに、人間の生きる日常とは離れた「幻」の中でしか生じえないということだろう。人間にとっては神との出会いは、等しく尋常のことではない不思議の体験である。それを聖書は「幻の中」と表現するのである。私たちも「信じる」その端緒となった事柄を想い起すに、やはり「幻」としか言えない、私たち人間の思いを越える側面を見出すのではないか。
4節「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ』」。古代の価値観では、家名の存続こそ一大事であったし、通俗的に神の祝福は子孫の繁栄にあった。ところが彼には自分の嗣業を受け継ぐべき子孫を持たなかったのである。だから現実的で冷徹な一族の長は、すでに「僕の子エリエゼル」を後継者に定めていた。そういう人間の当たり前で常識的な判断を、神の言葉は覆すのである。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」、尋常な事ではない。人間が見出し得ないことの告知が、神の「幻」であり、人間にとってあり得ない事柄だから「幻」なのである。
思ってもみない言葉に、さしものアブラハムも激しく動揺したことであろう。その彼に5節「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」。神は「外に連れ出して」天に瞬く星々の光を見せて、みこころを示された。神は常に、人を「外に連れ出す」のである。これしかない、これが当然、これが正しい、という人間の(人間ごときの)判断など、それは夜闇の中に漂うもののようだろう。その闇空にも光る星があることを、示されるのである。そしてそのみ言葉は、私たちの現実の中に、成就されるのである。
金子みすずの詩『星とたんぽぽ』、「青いお空の そこふかく、海の小石の そのように、夜がくるまで しずんでる/昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれども あるんだよ/見えぬ ものでも あるんだよ」。神の言葉は、そのみこころは、夜闇の中の「天の星」に喩えられる。昼には太陽の強い光が一面に輝くので、私たちの目には、無数の星の光は隠されている。しかしやがて太陽が沈んで夜になると、小さな星々の光は美しく輝き出し、「旅人に道を示し、詩人には歌を与える」のである。
6節「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。誰にも数えることのできないほどの星々が宇宙には瞬いている。そのひとつに私たちの星があり、そこに生命を与えられている私たちである。そんな中にあって、できることがあるとするなら、「信じる」ことだけだろう。聖書で「信」とは重いもの(栄光)に対する「誠実、信実」という意味である。この私にふさわしいあり方は、それを置いて他にないだろう、アブラハムと共に。