説教『私はふつつかな僕、なすべきことをしただけです』(ルカ17:7~10)

2015年 5月17日            主日礼拝・説教要約
説教『私はふつつかな僕、なすべきことをしただけです』(ルカ17:7~10)

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◎ 5月第3の主日、復活節第7主日を迎えています。先週は母の日を覚えて子ども達と共に礼拝を捧げました。その時には申しませんでしたが、私達の中には父母を愛せずに苦しんでおられる方がおられます。
年齢共に父母の苦労が分かってきますが、やはり私達は、神の赦しなくして和解はできません。母の愛と共に神の赦しと愛について考えさせられた1週間でした。今日も御言葉から命と力を得て参りましょう。
◎今日の聖句はルカ17:7~10の御言葉です。中心となる御言葉は17:10の「自分に命じられたことを皆果たしたら、『私共は取りに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言えます。この主の御言葉・教えには、キリスト者としての生き方、クリスチャンにとって労働・働き・行為とは何を意味するかが示されており、神の恵みが凝縮しています。今日はこの御言葉を味わいましょう。
◎御言葉に入って行く前に、一般的に労働・働くとはどういう意味を持っているか考えてみたいと思いますが、労働とはまず、賃金を得ること、食べていくため・生きて行くためになすべきことと言えます。創世記3章では、罪を犯したアダムに対して神は「お前は顔に汗してパンを得る」と命じます。労働によってパンを得て、生きて行くのが人間です。また、労働にはその人を評価する物差しという側面もあります。
良く働く人は評価され、そうでない人は悪い評価を受けます。私達は仕事ぶり、仕事の中身、業績によって人を評価します。労働は評価の物差しの一つなのです。他方、人間の労働・働きには賃金も報酬も見返りも評価も求めないものがあります。それは、自ら進んで行う奉仕活動であり、ボランティア活動です。
さらに、人間としての当然の行為・働き・労働もあります。イエス様は「よきサマリア人の話」を語り、人として当然なすべき隣人愛について教え、隣人愛に基づく行為・働き・生き方を教えられたのでした。
◎では、クリスチャンにとって労働・働きとはどういう意味を持っているのでしょうか。生きて行くための手段か、評価の物差しか、奉仕か、当然の義務か。今日の御言葉、17:7~8には、主人に仕える僕・奴隷のことが語られ、僕は畑を耕して帰ってきたら、休む間もなく、食事の準備・給仕の仕事があり、それが終わってから食事をすると話されます。つまり、主人に仕える僕は、次々になすべき仕事があり、それをするのが当然である。だから、「私はふつつかな僕です。なすべきことをしただけです」と言いなさいと主は教えるのです。これはどういう意味でしょうか。ここには主の深い思いが込められていると言えます。
◎今年の創立記念日礼拝で説教をしていただくことになっている加藤常昭牧師の説教の中に、「私はふつつかな僕です」と書いた墓碑銘があることが書かれていました。「私はふつつかな僕です。なすべきことをしただけです」と静かな笑みを浮かべて語るキリスト者になるためには、どのような信仰が必要なのでしょうか。あるいは、そのようなキリスト者の心にはどのような信仰・思いがあるのでしょうか。今日は、そのことをじっくり考えていきたい。そして、そのような信仰者に一歩でも近づきたいと思います。
◎そのような信仰者の根底にあるのは何かと言えば、それは「私は神の僕です、イエス・キリストの僕です」という自己理解・自己認識です。この自己認識は聖書の中に一貫しています。父なる神は天地万物の創造者であり、支配者です。人間は神に作られた被造物です。この世の支配者は神であり、人間ではない。人間は神にこの世の管理を委ねられた者でしかない。神が主人であり、人間は仕える者です。さらに、神は神に背く人間を憐れみ、独り子の命を犠牲にすることで私達の罪を赦し、罪から救い出し、神と和解させてくださいました。神、そして、イエス・キリストは救い主であり、私達は救われた者です。その意味で神・イエス様は主であり、私達は僕なのです。その自覚は使徒ペトロの場合も、伝道者パウロの場合も明確でした。罪人なる我を赦し、愛してくださった主イエスは主であり、自分はその僕である。この自覚から二人はその御恩に報いるために全身全霊で宣教し、主のために命を捧げたのでした。パウロは、「キリストイエスの僕」と書き、「そうせずにはいられない」と書いています。ここに僕としての信仰があったことを知らされます。フィリピの手紙には主ご自身が父なる神の僕として生き、死なれたことが書かれています。私達は主にならって、主イエスの僕として、父なる神の僕として生きて行きたいと思うのです。
◎もう一つ、そのような信仰者の根底にあるのは、父なる神への感謝、主イエスへの感謝の心があることを忘れてはなりません。私達は神様から、イエス様から、限りなく大きな恵みを受けています。その恵みに応えて私達は働きます。そこには何の報酬も見返りも評価も必要としません。ただ、神様から命じられたことを精一杯するだけです。ふつつかな僕ですから働きは不十分です。ですから私達は謙虚にならざるを得ません。ただ私達は主の僕・神の僕として与えられた恵みに感謝しながら日々、黙々と働くのです。