「ガリラヤへ行き」マルコによる福音書1章14~20節

小寒、大寒の季節を迎えた。教会の「ランチの会」では、食後の腹ごなしがてら、皆で懐かしの歌を歌うが、先日は童謡の「雪」を共に歌った、かの「犬は喜び庭かけ回り、猫はこたつで丸くなる」で有名な童謡である(最もあの歌詞は2節目なのであるが)。高校生二人も会に参加していたが、よく知っているとのことで大きな声で歌ってくれた。同じ歌を共に歌えること、これも世代を超えた交わりである。その歌詞カードに「雪やこんこん」の「こんこん」とは何か、が説明されていた。それによれば、「雪よ来い、もっと降れ!」と雪を歓迎し、呼びかける言葉で、「来む来む(こむこむ)」や「来い来い」が語源とされ、降りしきる雪の擬音ではない、ということであった。「こんこんは雪の積もる音ではない」、今までの誤解が解かれた次第なのだが、そう説明されても、「こんこん」は雪の積もる音に感じてしまう。音の呪縛であろうか。音というものの意味の深さ、多様さを考えさせられるささやかな経験であった。

音にまつわるこんな話を聞いた。「耳にする音の高さが急に変わると、人は不安を感じ、手や足が止まりがちだという。道を空けてもらいたいパトカーや救急車のサイレンも、その効果を狙っている。加えて不協和音なら、緊急の度合いが一層伝わるのだろう。♬チャラン、チャラン。緊急地震速報の前触れにテレビから鳴る、和音二つのチャイムも計算のたまものらしい。強い揺れに備え、警戒を促す『音の引き金』。約20年前に気象庁が始めた速報は、既に300回を超す」(1月7日付「天風録」)。私たちも時に、スマホから突然響くあの不気味なチャイムの音を耳にすることがある。確かにあの耳ざわりに響く不気味な音は、私たちの神経を逆なでにし、緊張を強いる。問題はその後、ただ大変だ、危ない、と思い、この場に固まってしまうだけなら、あの「音」にはどういう意味があるのだろうか。

今日の聖書の個所は、主イエスが神の国の宣教を、今や始めようか、という時の次第を記している。「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」。「福音」とは「喜びの音信」と言い換えられる。「音が聴こえる」という、神の国が私たちの生きているところ、日常のすぐそばにやって来ている、その「音」を聴きなさい、というのである。神の国の訪れは、目には見えなくても「音」でそれと知れる、皆さんはどこにその音を聴くか、どこでその音を聴くのか、どのようにして聴くだろうか。

今日の個所では、主イエスの宣教の開始、その第一声が告げられる。その始まりに何をされたか。16節「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる(に向かう)漁師にしよう」と言われた。ガリラヤ湖の漁師の兄弟、シモンとアンデレに声を掛けられた。呼びかけられた、というのである。これは簡単に言えば、「仲間を募った、同労者を立てた」ということである。「一緒にやらないか」。

おそらく主イエスおひとりでも、神の国の宣教は可能だったろう。もしかしたらひとりで活動した方が、手間もかからず、手っ取り早かったかもしれない。そのくらいの力量はお持ちである。確かに非凡な能力を持つ人は、自分一人で道を切り開くものである。「私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」、かつてノーベル物理学賞の栄誉にかがやいた日本人科学者の受賞決定直後の記者会見での発言を思い起こす。しかし主イエスは、共に食事をし、共に語り合い、共に歩み、苦労を共にする仲間、弟子たちを求めて、彼らを招かれた。宣教開始の、最初に記されているこの主の振る舞いは、実は人間にとっての一番の課題が語られていると言えるだろう。

こんな言葉がある「皆と共にいることが好きな人は、『ひとり』を学びなさい。またひとりが好きな人は、『ともに』を学びなさい」。「ともに」と「ひとり」、人間が生きる上で、この2つを2つながら、どちらも損なわずに、どちらも犠牲にせずに、バランスよく保つのは、かなり面倒で厄介な問題である。主イエスは、弟子たちと共に歩み、あえて言えば、師を理解できず、余計な所でしゃしゃり出て、余計なことを言い、足手まといになることも多かった人たちである。だからこそ私たちもまた、主の後について行くことができるとも言えるだろう、しかし時に、主イエスは、ひとり寂しいところに行って、(皆から隠れたところで)祈られたという。「ともに」を知る人は「ひとり」を知り、「ひとり」を知る人が、真に「ともに」の意味と価値を知るのだろう。「ともに」と「ひとり」はしっかりと車輪の両輪のようにつながっている。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」、この主の呼びかけも興味深い。シモンとアンデレはガリラヤ湖の漁師である。その彼らに「人間をとる(相手にする、挌闘する)漁師にしよう」というのである。相手がだれであれ、どこまでいっても彼らは「漁師」なのだ。主の弟子になっても、キリスト者になっても、私たちには変わらないものがある。洗礼を受けたら、外見が聖人のように、栄光に光り輝く、ということはない。頭脳や性格がまったく変わってしまい、別人になってしまった、等と言うことはない。相変わらずの凡人であり、怠け者であり、頑固者であり、罪人なのである。「漁師」であることに変わりはない。「網を捨てて従った」と記されるが、シモンは実家を捨てていない。この後、熱病で苦しむ姑を癒して欲しいと、主に願い、自宅にお連れしている。彼らはまったく自分の家や家族を捨てて、弟子になったのではないようだ。時々は家に帰り、家業を手伝い、そして同時に主の弟子として宣教の手伝いをしていたということなのだろう。実際、十二人だけが主に従ったのではない。かなりの数の人々が、主イエスを師と仰ぎ、その活動に共鳴し、参与し、手伝い、協力していたのである。

しかし「漁師」は漁師でも、主の呼びかけられた彼らは、主イエスの下で「人間をとる漁師」、魚ではなく人間と向かい合い、人間を相手に挌闘する漁師と変わるのである。主イエスに呼びかけられ。主イエスに従うとはこういう「変わる」と言うことが起こるものだ。それまでは「魚」しか眼中になかった者が、魚ではなく「人間」に目を向けるようになる。「わたしについて来なさい」、すべてこの主の呼びかけから始まる、今も私たちの人生に、「網を捨てる」ことが起こるのである。

地震列島のこの国、今年も新年から大きな地震の報が伝えられた。最初の「警報」の話はそれに即しての文章であるが、さらにこう続く。「(実際に警報が鳴った時)ミシミシ音を立てる職場の壁や天井に気を取られ、わが身を守ることをすっかり忘れていた。数秒間とはいえ机の下に潜るくらいの避難はできたはず。『あ、地震が来る』。ぴんときても、動かなければ元も子もない。例のチャイムは、アイヌの祭りを描く交響曲にちなむ。開発者の伊福部(いふくべ)達(とおる)東京大名誉教授が、北海道育ちの叔父の残した旋律を元にした。ヤマ場で立ち上がり、歌い踊る長老に想を得た一節らしい。『行動せよ』のメッセージを忘れたくない」。

あの不気味な音、居てもたってもいられなくなる音は、元々は「ヤマ場で立ち上がり、歌い踊る(アイヌの)長老」の姿を写し出しており、「『行動せよ』のメッセージ」を表している、というのである。「神の国は近づいた」と主イエスは言われる。丁度、駅のホームで電車をまっている時に、アナウンスが流れる。「間もなく、~行きの電車が到着します、黄色い線の内側に下がってお待ちください」、すると皆は電車に乗る準備を始めるではないか。ベンチに座っていた人は立ち上がり、置いていた荷物を手に取り、電車を待ち構える。そうしている内に、未だ電車の姿は見えないのだが、レールからは電車の車輪の響きが伝わって来る「カタン、カタン」。すると皆はいよいよ乗り込むための心構え、緊張をするのである。まだ電車の姿は見えないのに。「福音によって、信じることをせよ」、というみ言葉は丁度そのような様子を表している。

「あのね、学校でね…」。沈んだ子どもの声を聞き、親は原因を解きほぐそうとする。「何があったの」。声をかけてあげるまでの時間はわずか0.2秒、受け答えするまでの平均的な時間とされる。意味を吟味し、文脈や場面、過去のやりとりを踏まえて返答する。脳の瞬発力と言えそうだ。会話は人間が編み出した高度な営みだと改めて分かる。神の言葉もまた「福音」という「音」である。音のやり取りを人と人とは、0.2秒の間合いを持って、毎日毎時、行っているのであるという。今、この時に、この私に主イエスは福音を告げられる、神の国、神の支配、働きと、今の私がつながっていることを、その音を私たちは聴くのである。「網を捨てて、主に従った」最初の弟子たちは、悔い改め、方向転換をした。私たちも、その喜びの音、福音に向かって体と心を前に向けることをしたい。そこに確かに主イエスはがおられる。主イエスに向かう、そこから毎日を始めたい。