祈祷会・聖書の学び エレミヤ書20章7~18節

手掌を骨折した。手術で薬指の中支骨の骨折箇所に、釘のような金属棒を二本、交差させて埋めこみ固定をし、癒着を待つこととなった。掌に釘を打たれたような有様で、磔にされたあの方を偲ぶ縁になった、というような大げさなものでもないのだが。ところが金属棒の先から黴菌が入ったのか、傷口が化膿して、指掌全体が腫れあがったのである。抗生物質が投与され、今も服用が続いているのだが、主治医は「骨の髄に菌が入り込むと、厄介なことになる」と言う。患部のレントゲン映像も、骨折の様子は観察できても、骨の中までは映し出すことはできない。さてどうなっているのか、知る術もないが、時折、患部がひきつるように痛むことがある、骨の中からの呻きだろうか。

今日の聖書個所は、エレミヤ書中に分散しておかれている、5つの「告白」録の最後の断章であり、預言者の感情がもっとも激しく吐露されている部分である。この断片に印象的なのは、いくつかの身体部分への言及により、身体感覚をもって迫って来る表現がなされていることであろう。聖書の人々は、いわば「頭」で思考するというより、「身体」で味わうことが認識の方法であった。これは古代の文化に共通してみられる感覚である。その一番の典型が、「腹」を思考の座とみなす感覚である。

12節「万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ」。他のエレミヤ告白の中にも語られる章句だが、この国でも「腹黒い」、「腹の探り合い」、「腹が立つ」というような多くの「腹」にまつわる言辞が数多く存在し、それは取りも直さず、「腹」を思考の座と見なしていたことの証左である。但し、ヘブライ語では「腹」に相当する用語はより細分化され、腹腔に収められている各臓器の名が用いられる。エレミヤの言葉にも、人の「はらわた」と「心」と訳し分けられているが、厳密にはそれぞれ「心臓」と「腎臓」のことである。旧約で「腹」という場合、主にこの2つの臓器名をもって語られることが多いが、それは小家畜飼育者として暮らし、神に犠牲の動物を捧げる祭儀を執行して来たという営みが直に反映しているであろう。

このみ言葉には、エレミヤの洞察の鋭さも見て取れるであろう。直訳すれば、「正しい人の心臓と腎臓とを究め、探られる方」、即ち、皆からあの人は義人だ、人格者だと評判の人でさえも、皆が言うからそうだと認められるのではない、実に神自らが、み手を伸ばして、その人の内蔵深くまで分け入って、探られるだろう。それによってその人の真は明らかにされる、と預言者は語るのである。他の人々の噂と評判によって、自分自身を認識するという価値観に支配されていた古代において、彼の洞察は一歩抜けでていると言えるだろう。それは「私はあなたに向かって/私の訴えを打ち明けたのですから」(協会共同訳)という章句にみられるように、ひとり神の前に座り、語り聞く姿勢、これは預言者の務めを行う時に、その言葉によって、同胞から引きはがされ、独りにならざるを得なかった彼の生き様と繋がっているのである。10節「わたしには聞こえています/多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』と彼らは言う「共に彼を弾劾しよう」と」。背後で、あるいは面と向かって預言者は陰口をたたかれ非難される。預言があたらず嘘つき者になったら、思いさま嘲ざ笑ってやろう。そういう孤立無援の中から、彼はひとり神に行くのである。そして実に神は、人の腹の奥底に手を伸ばされる、その中でこそ人の真実があらわにされる。

しかし、今日の個所でより印象的なのは、もうひとつの身体の部分、骨についての言及である。古代イスラエルでは、遺体を布でくるみ、洞窟や岩をくり抜いた家族墓にそれを安置し、肉が朽ちた後に収骨し、骨箱に収めていた。骨箱には、ひとりだけでなく先祖代々の骨が合葬されることになる。人はついに肉は朽ちてからからの骨だけになる。彼らは死者の「骨」を手に取り、彼の死を、まさに具体的に確認したことであろう。生きている時には、骨は髄に満たされて潤いを持っている。旧約聖書において「骨」や「髄」は、人間の生命力、感情、あるいは存在の根源を象徴する喩えとして使われているのも、そういった体験に裏打ちされているといえるだろう。さらに、神への信頼や喜びが「骨を潤す(元気である)」と表現され、逆に悩みや罪が「骨を腐らせる(衰える)」という形で、内面的な状態が、身体の最も深い部分(骨・髄)に現れると描写されている。箴言 3章8節に「それはあなたの体(へそ)を健やかにし、あなたの骨の髄を潤す」と記される通りである。

9節「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。これはエレミヤ告白の中でも、もっとも強烈な印象を与える文言の一つであろう。この言葉から、彼は一時期、預言活動を停止していたのではないかと推測される。聖書学者は、ヨシヤ王の宗教改革の時期に、一旦活動を休止し、その成り行きの次第を見守っていたのではないかとも考えている。そういう外面的な事情とは別に、預言者の内面での葛藤や煩悶が、強烈な印象をもって伝わってくるような言葉である。

骨の中に炭火が燃え盛り、自分の心と身体を焼き焦がし、焼き尽くそうとする、これがエレミヤのみ言葉体験である。およそ彼にとって、神の言葉は、クールでスマートなものではなかった。現状に甘んじて、惰眠を貪るような人間をして、奮い立たせ押し出すのである。「お尻に火が付く」、切羽詰まった時の比喩であるが、これには何かしらの皮肉な笑いが感じられる。そこまでにならないと人は容易に行動を起こさない、そうなってから、いてもたってもおれなくなり、あたふたと頓珍漢な対処を行う。ところがエレミヤの場合、骨の中にちろちろと赤い火が燃えているのである。自分の内側、生命の真ん中から火の手が上がる、とてもではないが居ても立っても居られない。「もう語れない、しかし語らずにはおれない」この相反する揺れ動く振り子のような葛藤の中で、預言者は語ったという、その真実が「骨の火」という一語から浮かんでくるのではないか。

母が亡くなり、火葬の後の収骨で、母の遺骨(これだけになってしまった)を見ながら息子がぽつりとつぶやいた。「お祖母ちゃんは、生命をしぼりだして生きたんだなあ」。人は骨となったら、もはや語ることはない、と考える。しかしそうではない、人は骨になってもなお語り続けるのである。骨の声、それを間近に聞いた子どもの心に、その“ことば”はずっと後になっても息づくであろう。神の御手は、どこまでも伸ばされるのである。