「世界祈祷日」説教 マタイによる福音書11章28~30節

ナイジェリア、ある年代以上の方は、「ビアフラ」という地名を記憶しているだろう、この国の一部の地域であるビアフラの悲惨が世界に伝えられた。1960年代末、民族の独立を掲げて内戦が起り、この地にこの上ない深刻な飢餓がもたらされた。この国でも「やせ細ってお腹がぱんぱんに膨らんだ子ども」の写真が、大写しに報道された。戦争は常に飢餓をもたらす。それから半世紀以上の時が過ぎた。

現在のナイジェリア、2億3千万人余り、アフリカ第一の人口規模を有し、日本の2倍半の国土、熱帯モンスーン気候とサバンナ・ステップ気候により、緑の大地が拡がる。石油の産出量アフリカ大陸で随一、レア・アースの埋蔵量も豊富、昨年のGDPは南アフリカ共和国を抜いて、アフリカ第一位となった。創世記の創造物語で近東の4つの河について言及しているが、その内の二つはアフリカに措定されている。「その地の金は良く、ラピス-・ラズリも算出した」とあるように、アフリカは無尽蔵の富が眠る祝福に満ちた豊かな大地であることが記されている、今もそれは変わりない。

ところがその絶大な豊かさは、かえって「呪い」となるのである。利権獲得のために国内外から富や権力の激しい収奪戦が続いている。民族あるいは部族間の衝突、とりわけ北部はイスラム過激派ボコ・ハラムやイスラミックステートの根城となり、テロ行為が繰り返され、キリスト教徒への迫害と共に、イスラム教徒にも同様に、攻撃が続けられている。最も悲痛なのは小中学校がテロの標的にされ、大勢の子ども達が誘拐され連れ去られていることである。他方、大統領はじめ国の主だった者たちは、上から下まで私腹を肥やし、賄賂を取り、蓄財することしか考えていない。実に国家予算の2/3が使途不明金となる有様である。3千年前、旧約聖書のアモスやミカといった預言者が、厳しい裁きの言葉を語ったが、聖書の民の王国もまた、この様であった。

昨年のクリスマスに、アメリカ、トランプ大統領はこの国の北部にミサイルを撃ち込んだ。キリスト教徒を迫害するイスラム過激派に鉄槌を加えるため、という大義名分だが、豊富な原油と地下資源の利権に自らの釘を刺すためであり、空爆されたその地の住民は、家や家族を失い難民と化した。そういう社会が何をもたらすか、誰に一番のしわ寄せがいくのか、今年の世界祈祷日の式文に語られる3人の女たちの証言は実にそれを示している。

ベアトリス、夫が部族間の紛争で殺され、3人の幼い子どもをかかえて「社会で自分の居場所を失った」。生計の道をまったく奪われ、貧しさが家族の生活に重くのしかかった、と語る。またジャト、自分の娘と同じ年で、知り合いの娘レアがボコ・ハラムにさらわれ8年経った今でも帰ってこない。もし自分の子どもが「同じ目に会ったらと気が気ではありません」、「宗教的な弾圧を受けたら、わたしの信仰はどうなるのだろうか」と告白している。さらにブレッシングは言う、「政府は自分たちに集中し、自らを優遇し、巨万の富を得ています。主食の米すらもぜいたく品で、若者たちの就業率は低く、自暴自棄に陥り、絶望から自死が後を絶たず、誘拐や強盗、性売買などの犯罪へと」向かって行く。「この国には豊富な資源があるのに、わたしたちが心から望むリーダーシップも希望もない国」なのであると。3人がそれぞれの境遇で、それぞれが口にしているのは、この国に「希望がない」という情況である。どこに希望はあるのか。そしてわたしたちの国はどうなのか。ナイジェリアとは無縁で、みな希望にあふれて、日々の暮らしを楽しんで、安心して生きているか。見えないところでこの3人の女性と同じ思いで呻いている人々はいないのか。

今日の世界祈祷日の主題聖句、マタイ11章28節のみことば「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。主イエスは明るく希望に満ちている人々を前に語られたのではない。目の前にいるのは、日々に激しく疲れ、重荷に打ちひしがれている人々である。「わたしのところにおいでなさい、やすませよう」。ところがその後に続けて、「わたしの軛を負いなさい、それは軽いから」と言われるのである。「重荷を下ろせ」、ではなく「主イエスの軛を負え」、人生の重荷はなくならない、「自分の十字架を負って」ついて来なさい、と言われるように、人は誰も、自らの人生に自分自身の重荷を負わざるを得ないのである。その重荷を「わたしの軛によって」と言われる。それは、主イエスと共なる軛なのである。主が私たちの重荷を、私と同じ軛につながれて負ってくださる、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」。

困難と嘆きに満ちた人生を歩む3人の女たちが、主イエスの軛を負い、共に歩む中で何を見出し、何を味わっているのか。「そんな闇の中で、信仰によって、夫を亡くした人たちのコミュニティによって、強くなりました。今、わたしは乏しい資金で(はあるけれど)、他の女性たちを支援し、お互いに強め合っています」。また「今もレア(誘拐された少女)の帰りを待ち、小さなコミュニティで祈りを続けています。イスラム教徒とキリスト教徒を分け隔てせず隣人と共に生きてゆくようにと、わたしを励ましてくれています」。「いつか神さまが別のドアを開いてくださることを信じて、長いトンネルの先の一点の光へと、信仰が導いてくれる」ことを祈っている。

彼女たちは闇の中、絶望の中にただ留まってはいない、主イエスの招きに向かって歩み出したのである。そこに多くの出会いがあり、コミュニティが生まれ、新しい取り組みの種が蒔かれて、重荷を負う一歩が与えられたという。「わたしはひとりではない」。

以前、教会有志でクリスマスのキャロリングに、できたばかりの小さなホスピスを訪れたことがある。そこで緩和ケアを受けている方々の前で歌ったのだが、あまり長時間は体に負担だろう(あまり歌も上手くないし)、と考えて数曲歌って終わろうとしたら、聴いていた一人の方が言う「もう終わりですか、もっともっと聴かせてください」。後で施設長さんがこう語られた。「明日、亡くなる方も、今日一日を生きる『希望』が必要です」。「希望」がない所で人は生きられない。拙い賛美の声も、神の手が伸ばされ、主イエスと繋がれるなら、希望へと導かれる。主イエスは、その軛によって、私たちを暗闇と絶望から、引き出してくださるのである。