グリム童話に『幸せハンス』という噺がある。ハンスが奉公をして、7年が経った時、
「故郷(くに)のかあさんのところに帰りたくなりました。お給金をくださいまし」と主人に願った。主人は、彼の真面目な働きぶりに応えて、大きな金のかたまりをハンスにやった。家へ帰る途中、ハンスは馬に乗った男に出会った。「馬に乗るって、楽そうだな。重い金など持たないで、道がどんどんはかどるし」、「どうだね、とりかえようか」、ハンスは、金と馬を交換してしまう。馬にまたがりハンスは幸せいっぱいになるのだが、でも、馬から投げ落とされてとても痛い目を見たので、「もう 馬はこりごり」。ハンスは今度、牝牛と馬を交換する。ところが牝牛に蹴られてハンスは、またもや痛い目に、こんどは、牝牛を豚と交換することになる。こうして、豚をがちょうと交換し、ついにがちょうを砥石と交換する次第となる。研屋に「砥石があればそれだけで、どこ行っても商売できるよ」と言われたからである。さてこの後、話はどう結末を迎えるか。「砥石」がどうなるのか。
日本の民話に「わらしべ長者」の話が伝えられている。価値のないもの(一本のわら)が、段々と値打ちのある高価なものに代わって行く。この逆バージョンとも言える昔話なのだが、どう思われるか。どちらの物語がお気に召すか。ハンスはこの世的にはおろか者の代表であろう。値段の高い高価なものを次々に手放して、値段の安い価値の低いと思われるものに、取り変えてしまうのであるから。確かにこの世は、手持ちの宝を眠らしておいてはいけない、いかに有効に活用するか、どう増やしていくのか考えよ、即ち、資産運用の大切さが取り沙汰される。ところが、最近では「NISA貧乏」なる現象も語られ、資産運用に懸命になった挙句、将来はともかく、現在の生活がきつきつで余裕がなく、遊ぶこともままならず、汲汲として暮らしているというような笑えない事柄も生じているようだ。いわば未来への投資が、現在の生活を押しつぶしてしまう、というのである。
しかしこの昔話は、思慮が足りず、愚かに生きて、人生に損をすることを戒める話ではない。こうした物語が語られるその背後に、ヨーロッパ世界に「資本主義」が台頭し、富のあくなき追及が人生の目的であるかのように、人々の志向や価値観の変化が生じたことと無縁ではないだろう。経済的に金銭的な損得が、すべての事柄の判断基準となって行った時代に、それでは、真の人生の得、幸いについて問い直そうしているのではないか。その際に、多くのものを得る「獲得」という価値ではなく、今まで手にしていたものを失う、「喪失」の持つ意味が問われるのである。およそ誰の、いかなる人の人生であろうとも、「喪失」の経験は例外なしに訪れるのである。大切なもの、愛するものが失われた時に、人はどうなるのか、どうするのか、どこに目を向けたらよいのか、それを問いかけて来る物語なのでないか。
福音書の受難物語、主イエスの十字架の物語は、愛する主イエス、かけがえのないあのお方の死、それもその死に対して、自分たちは何もすることが出来なかったという無力な、徹底的な喪失体験が背後に存在している。そしてその三日目の出来事である、さて、今日の聖書の個所に目を向けよう。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」のことだったという。その日の朝、マグダラのマリアが主イエスの葬られた墓の異変について、ペトロとヨハネに走って知らせ、この二人の弟子もまた走って墓へと赴いて、主イエスの身体が消え失せたことを確認したのである。それでも弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、閉じこもっていた、という。古代では、誰につくか、何者に従うか、誰を頼りにするかで自分の人生が決まったとされる。出世し栄達の道をたどる有力者と親しい関係を持てれば、自分の出世、渡世の安泰にもつながるのである。ところがその頼みの綱が没落すれば、自分の身も破滅する。頼りにし、拠り所としていた有力者が居なくなれば、自分の希望も損なわれ、順風満帆の人生を諦めなければならなくなる。ユダヤ人を恐れ、堅く鍵をかけて扉を閉ざし、息をひそめて一つの部屋に閉じこもっている、とはそのような状況である。一説に、そこは「最後の晩餐」が行われた部屋であったとも伝えられる。弟子たちは、せめて愛する主とついの時を過ごした場所で、ひと時、主の在りし日の懐かしい思い出に浸ったのかもしれない。
そこで出来事が起こった。聖書の告げる所、人間にとってはもう遅い、手遅れだ、後の祭りだというところに、神は出来事をもたらされるのである。そこへ、当の主イエス、十字架で息絶えられ、墓に葬られ、しかも不思議なことに、遺体も消え失せてしまった、つまり弟子たちは、完全な喪失の体験を味わったのだが、その失われた当人が目の前に来て、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだという。「主を見て喜んだ」と伝えられるこの「喜び」が何であるか、それはこの懐かしい主イエスの言葉に手掛かりがあるだろう。
これは何よりユダヤのいつも普通に交わされる挨拶のことば「シャローム」である。かつて主が十字架に付けられる前、毎日のように顔を合わせるたびに、「おはよう、こんにちは、こんばんは」と当たり前に投げかけてくれたあの挨拶の言葉が、いつもと変わらない声色で、調子で、響きで語られたのである。しかもシャロームとは、「平和、平安、安心」の意味である。弟子たちのこころに、それこそ無上の安心、安堵が広がったことであろう。「復活」とは、証拠とか証明という科学的な鑑定や権威筋のお墨付きのようなものではなくて、主と共にある「安心」のことに他ならなかった、安心が回復され、再び取り戻された、ということであろう。「主を見て喜んだ」、安心が拡がったのである。安心があれば、固く閉ざされた心の扉を開くこともできる。
ところがここに一人、この時にその部屋にいなかった弟子がいた。その弟子の名はトマス、福音書の記すところでは、彼はマタイ(収税所の役人?)と相前後して、主に呼ばれて弟子の一人となったようだが、その素性や職業、人となりは不明である。なぜ外出していたのかについては、昔からの言い伝えがある。彼は食料係であり、皆の食べる食べ物を調達する役割を担っていたというのである。この日もたまたま食べ物の買い出しに出かけていた。丁度、間の悪いことに、時を同じくして、復活の主が、弟子たちの前に姿を現されたのである。彼が戻った時に、他の弟子たちは、復活の主がここにお出で下った、と喜びを隠し切れないで、色めき立っている。その一同の様子を見て、トマスは心底、腹立たしい思いであったろう。なぜよりによって自分がいない時に、主がやって来られるのか。そもそも自分は、わがまま勝手して不在だったわけではない。皆の食べ物のことを心配し、買出しに行っていたのだ、いわば公用だ、それなのに、自分だけが除け者にされたか、意地悪をされているのか、と感じられたろう。だから残念でやりきれない、満たされない思いが、激しい言葉となって、ほとばしったのである。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」機会を逸したことが悔しくて、悪態をついているのである。「君たちは幻を見ただけじゃないのか」。この台詞から「疑いのトマスDoubting Thomas」という余りありがたくない呼び名を後の世から与えられたトマスだが、彼の言葉には、「不信や懐疑」というよりも、却って「主にお会いしたい、直に顔と顔とを合わせて確認したい」との熱い思い、非常にまっすぐな心の発露、という印象が感じられる。トマスは、「主の復活」を自らの手でつかみ、確かめ、自分の財産のように、自分の手もとに留めておきたい、と言うのである。トマスは極めて現代人の思考に近い。
さて「幸せハンスの話の続き、長旅を続けている彼、乾き切って「ハンスは野原の井戸にかたつむりのように這っていき、冷たい水を飲んで休み元気を取り戻そうと思いました。ところが座るとき砥石を傷つけないように自分のそばの井戸の縁に注意して置き、かがみこんで飲もうとしたら手がすべって石を押してしまい、二個とも水の中へ落ちてしまいました。ハンスは自分の目で石が底に沈んでいくのをみたとき、喜んで跳びはねました。それから膝まづいて、目に涙をためながら神様に感謝して、こんなふうにお恵みを示してくださり有難うございました、私を苦しめていたただ一つのものからとてもうまく救ってくださいました、おかげさまで自分を責めなくて済みました、と言いました。『僕のように運がいいやつは日の下にいないよ。』とハンスは叫びました。心も軽くすべての重荷から解放されて、今度はハンスは走って家にいる母親に会いにゆきました」。
今日の個所は、元々のヨハネ福音書の末尾、エピローグの部分だったろう。31節「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。本書の意図、執筆の動機が記されている。「信じる」ことは「生命」を獲得することだという。そして「信じる」とは「見ないで信じる」ことだという。そもそも「信」も「生命」も目に見えるものではない。自分の手の内に持って、しっかりとつかんで、価値を実感できるものではない。「私を苦しめていたただ一つのものからとてもうまく救ってくださいました、おかげさまで自分を責めなくて済みました」、苦しめていたものから引き出され、もはや自分を責めなくてもいい、これが「生命」を得る、という根本ではないのか。失なってはならないとばかり、「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」主イエスは、今も、このように、堅く閉ざされて凝り固まった、かたくなな私たちに出会われるのである。「シャローム」の挨拶をもって。