「ほかの羊も」ヨハネによる福音書10章7~18節

「足音」には一つひとつ個性があって、皆違うリズムやテンポを持っている。親しく聴きなれた足音は、その持ち主、発生源が誰だかすぐに分かるものだ。「牛の歩み」という表現がある。「牛歩戦術」という言い方にもつながるが、「歩みが遅い」ことの喩えである。但し、動物として牛の脚力は、時速50キロ以上で爆走することができるので、決して足の遅い動物ではない。

勅撰和歌集『千載集』にこんな一首がある。「けふもまた午の貝こそ吹きつなれ ひつじの歩み近づきぬらん」。『栄花物語』の著者として知られる赤染衛門が、山寺に詣でた時に詠んだ歌とされるが、午刻(うまのこく)、とは午前11時~午後1時、丁度お昼時である。時を知らせるのに法螺貝が吹き鳴らされた。その音色を耳にして、思わず「羊の歩み」を想い起した、それも自分のすぐ近くに足音が聞こえてくるようだ、というのである。「羊の歩み」とはいったい何を意味すると思われるか。

もともとこの国には「羊」という動物は生息していなかったらしい。文献に登場する「羊」についての記述は、『日本書紀』に遡るが、日本にはじめて羊という動物が登場したのは、西暦599年9月1日、「百済、駱駝一疋、驢一疋、羊二頭、白雉一隻を貢る」という出来事によるものであるという。「羊」が外交上の贈物としてこの国に運ばれたというのである。それまでこの国には「羊」という動物は存在しなかったらしい。贈物だから当時のこの国の人々にとっては、丁度、パンダのような「珍獣」であったにちがいない。数少ないその後の史料においても政治外交上の「進物」であり続けたようだ。「羊」はやはり「美しい」生き物なのである。

「羊の歩み」とは、屠り場に引かれて行く羊の歩みのように、寿命が刻々と尽き、死が近づいていることをしみじみと感じさせられるという「感覚」らしいのである。先の歌では、昼時になったので、お腹が空いて気もそぞろになって、活力が失せてしまった、という訳ではないにしても。「羊」という動物がもたらされると共に、「無常観」という観念も「羊」という動物の喩えとして思想史的な流入が起こり、その影響を生じさせたというのは、非常に興味深い。

犬や猫なら身近にいるから、その生き物としての特徴は分かりやすい。では「羊」という生き物はどうか。実際に羊を飼育している人、羊飼いが語る、この動物の特徴をよく伝える文章がある。「羊たちが騒ぎ出した。両側の横道に駆け出すのがいる。見ていると人間をからかって楽しんでいるようである。そんな表情に見えたし、遠くまで逃げてしまうことはなかった。それでも羊飼いは大変であるあっちへこっちへ走り回って、ようやく道路へつれ戻した。今度は二頭が座り込んで動かない。でもその内に『仕方ないや』というような顔をして立ち上がった。ようやく元通りの隊列を作って歩き出した。『羊のように従順』というがほんとに従順なのだろうか、『振り』をしているだけじゃないのか、そんな気がした。一ついえることは、羊は、羊飼いがいなければ、生きていけないということである。羊飼いがいてくれるからこそ、気ままにもふるまえる」。これを聞いて、「私も飼いたい」と思われるか。

今日の聖書個所は、ヨハネ福音書の中でもつとに良く知られている、「主イエスは良い羊飼い」の個所である。ヨハネ福音書の文体の特徴として、「わたしは~である」(エゴーエイミ)という表現が多用されることがしばしば注目される。この個所は「羊飼い」、他に「ぶどうの木」「道」「パン」など様々な事物に喩えられている。その中での最も強調されるのが「ことば(ロゴス)」である。ロゴスは全てを包含し集約しているともいえる。

「エゴー・エイミ、私は~だ」。皆さんはご自分をどう言い表すだろうか。勿論、「名前」が真っ先に来るだろう。しかしそれ以外に自分をどう表現するか。自分が何者か。仕事があって、会社や組織に属している間は、それが「私のエゴー・エイミ」と言えるだろう。しかし定年退職したならどうなるのか。ある方が定年退職をした。今までしたいけどできなかったことを、何でもしたらいい、と思う。例えば、のんびりと昼間に散歩する。ところがそれもできない。近所の人に、何もしないでぶらぶらしているのを見られたくないから。それどころか「散歩すると道に迷う」と言うので、理由を聞くと、朝暗いうちに出勤して帰宅も夜遅いので、明るいときに近所を歩いたことがないので迷うのだという。仕事上のつながりを失った後に、私の「エゴー・エイミ」は何が残るのだろうか。仕事、健康、お金、家、家族、友人、趣味、役割、私を創り、支えている具体的なものが、ひとつひとつ失われていく、というのが齢を重ねるということである。ならば、最後に残るもの、最後まで失われないものとは、何があるのだろう。

「わたしは良い羊飼い」と主イエスは言われる。「良い羊飼い」たるところは何か。今日の個所はそれを事細かに語りかけている。14節以下「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」。「知る、声を聞く」が鍵語である。主は羊を知っている、羊の声を聞く。そして羊も主の声を聞き、主を知っている。確かに「良い関係」というものはこういうものだろう。「あなた」と「わたし」が一方通行でない。すれ違いでもない。「知って、知られて、聞いて、聞かれる」間柄、先ほど、気ままな羊の話をしたが、「一匹の羊の足音を聞く」、そのような羊飼いがいるからこそ、羊は気ままにもなれるのである。

「知って、知られて、聞いて、聞かれる」、この関係が何から生まれるか、3節「羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出す」。これは家畜を飼って生活する者たちの、当たり前の風景だろう。この国でも、牛や馬を育てている飼い主は、自分の家畜に、「太郎・花子」等の名前をつけて、名前を呼んで世話をしているではないか。国はなぜか名前ではなく、番号でそこに住む人間を呼びたがる。番号で人間が呼ばれるのは、刑務所やら収容所というような場所なのだが。主は私たちを、名前で呼ぶと言われる。名が呼ばれる、それはかけがえのない存在として受け止められ、唯一無二の存在として呼びかけられることである。呼ぶから、誰でもよいから返事をしろというのではなく、ほかの誰でもない、あなたを呼んでいるのだと、名が呼ばれてはじめてそれが分かる。

復活の日の朝早く、空虚な墓の前で、立ち尽くしていたマリアに、主が彼女の名前を呼びかける。「マリア」。名前で呼ばれて、彼女は始めてそれと気づくのである。泣いていた彼女に、新しい力を与え、再び歩み出させるきっかけとなったのは、名前が呼ばれることであった。つまり名前を呼ばれるとは、主がいてくださる証、主に招かれているしるし主が共におられるしるしなのである。さらに主イエスは「羊のために命を捨てる」と言われた。もちろんこれは主イエスの十字架を指し示す言葉である。主はあなたのために身を裂き、血を流されたことを覚え。しかしこの章句を大胆に訳せば、「あなたの命(人生)の終わりまで、羊(あなた)のためにずっと名を呼び続ける」と読むこともできる。

『夜と霧』著者、VEフランクルが、その著書の中で語っている。「最も良き人々は戻ってこなかった。119104という「番号」をもった囚人、私は自分が「通常の」囚人以上のものではなかったこと、119104号以外の何ものでもなかったことを、ささやかな誇りをもって述べたいと思う」。この言葉にフランクルの、本書に込められた思いの丈が込められているだろう。人間が名前でなく、単なる番号に置き換えられる時と場所、強制収容所、そしてそれを生み出だす戦争。戦争は最も良き人々、つまり子どもたち、女たち、年寄りたち、ハンデのある人たちの命を真っ先に奪う。最良の人々は帰ってこなかった。そういう場所で、もはや人間ではなく、番号に置き換えられた自分が、生き抜いた。それは自分が強い人間だとか、深い思索ができる人間だからとか、優秀な才能を持っていたからではない。フランクル、否、119104を支え生かしたものは、愛するもの、家族の幻であり、死ぬまで人間であることを貫いた仲間の姿であるし、ナチスの手先になって小ずるく立ち回っていたが、結局その人もガス室に引き出される、その時に、最後のパンのかけらを、最も弱い人の枕元に置いて立ち去る人に出会い、そういうぎりぎりのところで、そこでも名前を呼んでくださる主イエスの言葉を聞いていたからなのである。名前が呼ばれると、人間はそこに生きることができる。

ここで主イエスの声掛け、名前を呼んでの声掛けについて、ヨハネは「ほかの羊も」と語っているのである。「この囲いに入っていないほかの羊」、これは普通、ユダヤ人ではない「異邦人」のこととして理解されているが、ヨハネ自身の自覚がこの言葉には込められているだろう。人はすぐに内と外、仲間とよそ者、極端に言えば「敵と味方」という二つの区分けの中で、お前はどちらか、という画一志向に陥る。しかし、主イエスはほかの羊に目を向け、他に心をかけるのである。

最初に「羊の歩み」について話をした。紫式部の『源氏物語』浮舟巻にも「羊の歩み」という言い方が出てくる。主人公の浮舟が薫大将と匂宮から熱愛され、板ばさみの苦悩から入水自殺を決意するという場面で描かれる情景で「羊の歩み」という表現が用いられる。「川のほうを見やりつつ、羊の歩みよりもほどなき心地云々」、宇治川のほうに目をやると、死が間近に迫ってくるような気がするというのである。ひとり自分の来し方行く末を思えば、「羊の歩み」にも似た、空しい人生の感慨が呼び覚まされるだろう。そこに呼びかける声、羊飼いの声がある。羊は、羊飼いがいるからこそ、羊としてありのままに生きることができる、生かされるのである。私たちも、主イエスがおられるから、私として生かされる。この週も、主の私を呼ばれる声に、しっかりと耳を傾けたい。