祈祷会・聖書の学び 出エジプト記6章1~13節

こういう新聞コラムを読んだ、「5歳の娘は最近、植物の種に夢中だ。スーパーで買った野菜や果物から回収するだけではなく、道ばたに生えている植物の近くに種が落ちていれば拾い集めている。手に入れた種は土に埋めて大切に育てるという。一つ一つ丁寧に選別し、土に埋めた後は毎日、水をかけて芽吹きを待つ考えだ。どんな芽が出てくるのか、成長したらどんな実がなるのか、一緒に想像を膨らませている」(4月6日付「金口木舌」)。

コンクリートやアスファルトに囲まれた現代の生活の中で、小さな「植物の種」に目を留め、目を見張り、自らの手を伸ばしてこれを集め、その種をひとつ一つ大切に育てる、そんな子どもたちが今もこの世界に存在している、ということに驚きと共に胸を熱くする思いがする。「種」は、まさに「生命の源」である。その源をおろそかにせず、大切に守り育てようという心、こういう心が子どもたちに今あるなら、世界の「平和」もまた、単なる夢や理想ではなく「現実」であると思わないわけにはいかないだろう。

今日の聖書個所は、「モーセの召命」記事の部分である。すでに前章までに、出エジプトの出来事について、モーセの出生からエジプト逃亡、ミディアンでの生活、ホレブ山での神の顕現、そして召命からエジプト帰還、ファラオとの最初の対決という詳細なストーリーが展開されているのに、ここでまたもや「召命」が記される。通読している読者にはいささか奇異に感じられるかもしれない。

聖書はさまざまな伝承の組み合わせによって生成された文書であり、出エジプトにまつわる物語も、成立した時代の異なる様々な伝承素材が組み合わされて現在の形にまとめられているのである。この個所は、伝承素材から言えば、最も後の時代に文章化されたと思われる部分である。その思想的特徴は、3~4節に非常によく表されている。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した」。この伝承は、「契約」をとりわけ重要視する。イスラエルの遥か昔に生きた父祖たち、父アブラハムを始祖とする滔々たる先祖、族長たちと交わした「契約」は、今も無効になっておらず、生きて働いているのであると。人間ならば、ある期限を越えたり、一方が義務や責任を果たさず不履行の状態ならば、契約は解除され、破棄され白紙に戻される。しかし神はかつての契約を、決して無視したり無効にされたりはしない。これが出エジプトの出来事と結びついているのだと主張しているのである。

ここで「神の名」が強調される。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」。「主」、今日の聖書学者はこれを「ヤーウェ」と読んで、神の名の呼名を推定している。ところが、父祖の時代、偉大なる先祖たちの誰も、神の名前を知らなかったらしい。アブラハムは「わたしの盾」と呼んでいるし、イサクは「畏む者」、ヤコブは「怖れ」という具合に、それぞれの呼名で読んで、「全能の神=エル-シャッダイ」を拝んだのである。「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という風情であろうか。普通「契約」というものは、お互いの名前を筆頭に、守るべき条件や責任や義務を細かく提示し、双方がお互いをよく理解した上で、納得づくで交わされるものである。ところがイスラエルの父祖たちはその相手の本当の名前すら知らずに、イスラエルの神と契約を結んだのである。だからこの契約は、人間の側からではなく、ただ神の側からから一方に結ばれた、世間の目からすればとんでもない契約なのである。

そのとんでもない契約を交わされた古の神が、今、こう告げられるという。5節「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。あなたがたのうめきと嘆き、苦しみを聞き、今、腕を伸ばす、と言われる。この時、イスラエルもまだ神の名を知らない、その名を告知されても、後の時代にその名を忘れてしまったのが、イスラエルなのである。そしてこの力ある神の言葉を聞いて、人々は奮い立ったか、9節「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。

世間では普通、「意欲」や「やる気」をことさら問題にするではないか。やる気があるなら応援しよう、意欲があるなら、採用しよう、それがなければお話にならない、と。よく「天は自ら助くる者を祐く」と言われるように、神もまた、やる気のある者をこそ、目を留め、手を伸ばし、その努力を嘉せられるのだと。まず「自助」、そして「自立」、その上で「公助」と諭される。しかしどうなのか、それができるような人には、助けは本来、必要ないのではないか。

主イエスは悪霊につかれた人、病に打ちひしがれた人に手を伸ばして、その人にふれて、「癒された」と伝えられる。彼らはみな「落胆して、意欲を失った」人々であった。その彼らに、み子、主イエスは手を伸ばされる、これは旧約の遥か昔から、イスラエルと交わされたされた契約、約束を、今もなお神は忘れておられないと言うしるしである。「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。神は今も、そのみ腕を伸ばされるのである。

最初に引用した記事の続き、「植物の種はさまざまな条件が重なり合うことで発芽する。種が土の中でだめにならないように、適正な温度や光の当たり具合、土の状態や水分量などを確認する必要がある。時間も手間もかかる作業だ」。主イエスは「わたしの父は農夫である」と語り、自らの手を伸ばしてぶどうの枝を刈り入れ、手入れを成さり、良い実を結ばせる働き人として教えている。神は第一に私たちのために手を伸ばされる方なのである。