祈祷会・聖書の学び 申命記12章1~12節

「多摩川格差」という言葉が語られている。東京都と神奈川県の境を流れる多摩川を挟んで、さまざまな格差が生じているとされる。即ち、東京都側は財政力が強い自治体が多いため、行政サービスが手厚く、インフラ・公共施設等が充実している一方、対岸の自治体はそこまでの財政力がないために、川を一本渡っただけで、住民が受けられるサービスの高低、街自体の評価について、大きな差があることの表現である。特に子育て世代へのサポート、保育料や支援金の多寡が問題となって、人口流出入の緒になっているというのである。

さらにこの問題は、首都圏にもあまねく拡がり、さらに地方都市の消滅を加速させる要因であるとも論じられている。少子高齢化、更に産業空洞化で、地方の人口が大幅に減少すれば、自治体の税収は低下し、そのために生活インフラの整備や維持、医療、教育、福祉といった住民サポートが破綻するという。その結果、地方の都市は、現在、人口が集中しているいくつかの拠点地域を残して、消滅してゆくプロセスをたどる、と予測されるのである。

「東京一極集中」に対して都市機能の移転も論じられている。この国は世界の自然災害の10%を担保している災害王国であり、東京もまた自然災害と無縁な場所ではないから、ここだけに政治経済の機能が完全に集中していると、万が一の時に国としての機能がまったく失われて。国としての機能不全に陥る、というのである。要は高度成長経済の達成によって築かれたこの国に住む人々の健康で文化的な生活が、遠くない未来に崩壊して行くというシナリオも描かれる。現在、私たちにとっての「故郷」とは、どんな場所であり、どんな意味があるのか。「山は青きふるさと、水は清きふるさと」と懐かしい童謡には歌われるが、そういう風景すらも、いつか近いうちに、荒れ果てて放棄され、「呪われた地」に変わるかもしれないのである。

申命記12章は、「地方聖所の廃止」とアシェラ像に代表される「偶像の撤去」が厳しく命じられている個所である。これはヨシヤ王の改革の骨子と密接に重なる主張である。古代社会は、曰く因縁のある様々な場所に、無数の聖所や祠があり、そこで祭祀が行われていた。そういう場所は巨石や古木のある所、それらは神々の「依りまし」として聖なる地とされた「曰く因縁のある」場所である。神々は自然の脅威とも結びついており、人間を超越した大いなる力を持つゆえに、それを祀ることで「荒ぶる力」を静め、「恵み」に変えようとしたのである。

出エジプトの後、長い期間を経てパレスチナに定着した聖書の民は、その地にあった聖所や祠といった祭祀場を破壊することなく受け継いだのである。それは先住民たちと摩擦を起こさないための方策でもあったが、「曰く因縁の場所」は、ずっとそこに住む人々の寄り合い場であり、拠り所でもあったから、部族ごとに分かれて住んだとされる古代イスラエルの人々もまた、そこを当然のように集会の場として用いたのである。

元々のパレスチナの宗教は、農業神を拝み、豊穣祈願を行うことで営まれていたが、バアル神(その意味は「主人」)、とその配偶神「アシェラ(神の女)」の像が祀られていたと考えられている。他方、イスラエルの人々はヤーウェを奉じることで、一致や団結を保っていたが、古代人として極めて素朴に豊穣や安寧を祈願しただろうから、おそらく異教の聖所をほぼそのまま踏襲し、そこで自分たちの神に対する祭儀も行ったことであろう。つまり余り深く神学的には思考しなかったのである。

それぞれの部族は、自分たちが定着した土地の由緒ある聖所を集会場としたから、そこは現在の自治体機能が付与されることとなる。即ち、聖所を維持管理する働き、そこに専従の祭司といった組織が整えられ次第に整えられてきたのである。イスラエルの政治は、本来一枚板ではなく、ヤーウェ・イデオロギー(奴隷の家から解放し約束の地に導かれた神の物語)によって、12の部族が緩やかに結びついた集団であったと考えられる。普段はそれぞれの部族は互いに干渉し合うのではなくて、それぞれの自治を尊重して、独自な路線を歩んでいたが、いずれかの部族が他からの侵略によって苦境に立つと、一致団結して有事に対処するといったあり方をしていたと思われる。「12」という数が理念的なものであるから、月当番や年当番の回り持ちで、部族間の調整役、これは同時に祭祀役を担っていたのであろう、それで緩やかな結びつきを保っていたのである。

ところが紀元前722年に、分裂した王国の北王国(エフライム)がアッシリアによって滅ぼされ壊滅すると、状況は一変する。北王国の10部族が捕囚によりアッシリアの地に連れ去られ、異民族がそこに植民されるのである。これは南王国ユダにとって大きな脅威であった。南王国はユダ族とベニヤミン族からなる極めて近親的な関係を保っていたが、(レビ族は、エルサレム神殿の聖職者としての機能を担う専従者達であった)強権のアッシリアに対抗するための政策が、是非とも必要となったのである。

5節「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、満願の献げ物、随意の献げ物、牛や羊の初子などをそこに携えて行き」とあるように、人ともの、さらに精神(信仰)をすべて、エルサレム神殿にすべて集中させるように命じるのである。これを通常「中央集権化」と表現するが、権力や財力をすべて一か所に集めることで力を集約し、再編、合理化し強化するという方策である。

政治における「国家」に対して、私たちにとって「国」とは、自分の住むべきところであり、結局、自分の居場所のことである。それは生計と密接に関わっている問題であるが、結局、安心や安らぎの場としての心の置き場である。7節「あなたたちの神、主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。あなたの神、主はあなたを祝福されているからである」。家族と共に飲み食いし、手の働きを喜び祝うことのできる場所、「祝福」を共に喜ぶことのできる身の置き所こそ、真に「くに」と呼べる身の置き所であろう。そういう場所を、今の私たちの生活のどこに見出し、どこに行き、どこに生きてゆくか、それが一番の課題であるだろう。国は一部の人だけのものではない。多様な人種、民族、性別、大人、子ども、若者、年寄が共に「祝福の内に喜ぶ」という場所のことであろう。主イエスの告げた神の国は、まさにそのような場所なのである。