「最後まで希望を」ヘブライ人への手紙6章4~12節

「仏の顔も三度」という諺がある。上方のいろはかるたの一枚の読み札の文言である。その意味は、「仏さまのように慈悲深く、穏やかな人でも、無礼なことを繰り返すと、さすがに怒るものだ」という教訓を伝える言葉として一般には理解されている。三度までは何とかなっても、四度目ともなるとどうなる、「怒る」がほんとうなのか。

最近、こういう文章を読んだ。内田樹氏がある雑誌に書いていた文章である。「本校でも、メンバーたちの多くが『問題点の摘示と取り組み』に膨大な時間とエネルギーを割いている。正直言って、そんな暇があったら教育・研究に用いればいいのにと思う。私が会議を好まないのは、会議をすると必ず『この組織の欠点』を摘示する人が出てくるからである。そして、一人が言い出すと次々と『実はこんな問題もあって…』と後が続く。まるで解決不能の問題点のリストを長くすることだけが問題解決の道だと信じているかのように。でも、それは違う。勘違いしている人が多いが、問題点をいくら摘示しても問題は解決されない」(「性善説組織論」『週刊金曜日』5月3日)。「人間」という問題(罪)ある存在、ましてそのひとり一人が共にあるならば、否が応でも、問題は山積みになる。だから問題があることが問題、つまり「だめ」ではないのだが、「問題点をいくら摘示しても問題は解決されない」ということを忘れている節がある。「仏の顔も三度」の意味は、4度目は「あきらめ」であるとも説明される。但し、「あきらめ」とは、もう見放した、とか見限ったではなく、明らかな目で見る、という意味なのであるが、何を明らかに見るのか。

「人間のことを考えればわかる。皆さんの配偶者でも子どもでも友だちでも、その人の欠点の長大なリストを作って『はい、これ読んでね』と差し出せば欠点が補正されると信じている人はいないだろう。ふつうは怒り狂ってリストを破り捨てて、剣呑な事態になるだけである。だって、『そんなこと自分だってわかっている』からである。だらしがないのも、せっかちなのも、人の話を聴かないのも、全部わかっているのである。でも、人には言われたくない」。「仏の顔も三度」とは、三度までも赦す、めったにそのように振舞える人はいない、ということだろう。だから「仏さまのよう」なのである。

今日はヘブライ人への手紙から話をする。この手紙、内実は論文、あるいは説教は、2世紀頃の教会の実情、即ち悩みや問題を今に伝えている、貴重な証言でもある。主イエスの十字架と復活お後、ペンテコステの出来事によってエクレシア、ナザレのイエスの群れ(教会)が誕生した、小さな集団である。この教会の草創期もまた、出エジプト後の、荒れ野の彷徨よろしく、あちらこちら仮の宿を旅しながら、拠無い自分たちの身の置き場所を捜し求めてゆく、という風情であった。とにかく礼拝だけが「いのち綱(づな)」、それで集められた者たちがひとつになり、力を与えられ、一日一日を過ごして行ったのである。それから半世紀以上過ぎて、建物としての教会が形作られ、教える者、教職や、世話する者、役員が立てられ、活動の方針と内容が具体化され、自分たちが何者であるのかを明らかにする、信仰告白や規則、制度が整えられてきた、という初代教会の歩みの次第である。初めの頃の、今にもすぐ消えてしまいそうな儚さはみじんもない、が、そこでどのような具体的な問題が生じて来たのか。

6章は厄介な事柄が議論されている個所でもある。さらに加えて「翻訳」の問題もはらんでいる。翻訳者が、自分の思い込みを無自覚のまま読み込んで訳してしまう、という問題である。4節「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」。この訳文の文言を読んで、皆さんはどういう勧告をおこなっていると理解するだろうか。文の前半は分かりやすい。神の恵みを受けて導かれ、主イエスを救い主と信じてバプテスマを受け、教会の会員となった、という事態を表している。これは現在でも、私たち自身の実際の経験であり、みなこうした神の恵みとしかいい得ない事柄にふれて、教会に繋がっているのである。

ところが後の文章、「堕落」とか「悔い改め」、とか「立ち帰る」と訳されているこれらが何を指しているか、また「できません」とは何ができないのか。どう受け止められるだろうか。「堕落」というとすぐに熱意の消失だけではなく、道徳的な退廃、あるいは犯罪に手を染めること、スキャンダルを起こす、ということさらに悪い印象を受ける。ある聖書学者はこう訳している「もしも離脱したとすれば、再び新しくされて悔い改めにいたることはありえないからである」。「教会から離脱する」、これは現代のこの国でも、日常的に生じることである。最近、就職した若者が入社して一日目、入社式の後で、「辞めます」と言って来るという事例が取りざたされている。「がまんが足りない」と言われるか。教会もまたこの世に置かれている限り、「天国の写し」とは言うものの、そのものではなく「鏡に映すようにおぼろげに見ている」ところなのである。

「離脱」の背後には、ひとり一人その人なりの様々なよん処ない事情が絡んでいるだろう。それでもその後、いくばくかの時が経って、離脱した人が戻って来たとしたら、皆さんならその人にどう言葉をかけるか。「わたしならどうするか」、世の中、一般の人はどう考えるかではなく「わたしなら」、これが信仰的な視点である。おそらく誰一人、冷たく突き放すことはしないだろう。放蕩息子の喩えを思い浮かべるまでもなく。但しこの「離脱」にはもう少し深刻な事情が絡んでいるようだ。迫害されて、脅迫されて、「信仰を捨てなければ、お前も家族も命はない」と強いられて、「踏み絵を踏む」ことになったら、皆さんはどうするのか。遠藤周作は色紙に好んで次の言葉を記していた、「踏み絵を踏む足も痛い」と。

一度、公の場所で、皆の前で主イエスを否み、「ころんでしまった」としたら、その人はどうなるのか。もはや「再び悔い改めに立ち帰らせることはできません(再び新しくされて悔い改めにいたることはありえない)」というのだが、もはや神の救いから放り出されてしまう、神の赦しに立ち帰ることはできない、もはや手遅れだと言っているのか。

「新しくされる、立ち帰る、悔い改め」という言葉は、最初の教会においては象徴的に、ある一つの事柄を指し示している。何か、それは「バプテスマ」のことである。洗礼によって、神に立ち帰り、罪を悔い改めて新しくされる」のである。そのしるしが洗礼なのである。だから「みそぎのように、もう一度洗礼を受けて初心に立ち返り、悔い改めの真心を示せ」という主張をする人がいたようなのである。これに対して、テキストはこう告げる「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」、つまり洗礼、即ち神がイニシアティブを持たれているその救いのみわざを、人間が「自分の思い通り」に操ることはできない。ちょうど大地の実りが、自然の恵み任せで、それに人が養われるように、もし自分勝手に気ままに操つろうとすれば、大地は荒廃する。今の自然破壊の有様を物語っているようで耳が痛い。

だからさらにこう語られる「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」。もし神が私たちの欠けや足りない所、ましてや罪をことごとくあげつらい、一覧表のように記して掲示して、これがお前の問題点だ、欠点だこれをどうするのか、と裁かれるとしたら、私たちはどうなるのか。それに誰が耐えることが出来るのか。最初に紹介した内田氏の文章の続きもう少し引用したい。「人間の欠点は補正できない。周りの人にできるのは、その人の長所を伸ばして欠点を目立たなくすること、それだけである。長所がもたらすベネフィットを最大化して、欠点のもたらすダメージを最小化する。不思議なもので、人が成長して、長所が開花して『あれはなかなかの人物だ』ということになると、『だらしがない』が『鷹揚』に見え、『せっかち』が『先見性』に見え、『人の話を聴かない』のが『軸がぶれない』に見えてきたりするのである。ほんとうに」。(まるで受験の内申書、推薦書の書き方のようだ)

主イエスがこの世に来たり、私たちと共にこの地上に立たれ、私たちと共に同じものを食べ、直に語り合い、その手を伸ばしてわたしに手を触れ、癒されたのはどうしてか。「七度を七十倍するまで赦せ」と言われた主のみ言葉は何だったのか。そして何より十字架に歩まれ、罪人を右と左に並んで、釘づけにされ、神に赦しを祈られたのは、何のためか。それによって「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験」した人は、その恵みから逃れることなどできるのか。人間が逃げ隠れしたら、もう見つからないというように、そんなに神の恵みは小さく、神の目は節穴なのだろうか。

「仏の顔も三度」と言われる。「三度まで」、仏のような人間にとっても、それが限界であろう。しかしそれから先にあるのが神の領分なのである。「神のものは神に返せ」と言われるように、まことの救いの希望を、どんな人も、誰からも取り去ることはできない。