祈祷会・聖書の学び コヘレトの言葉9章1~18節

「猫」派、それとも「犬」派、と言われるくらい、現代ではペットの代表格である両者、「家族の一員」としての地位も獲得するまでになっている。しかし古代では、とりわけ「犬」はひどい軽蔑の対象だったらしい。この国の諺にもなっている「聖なるものを犬にやるな」は、主イエスの口から出た言葉とされている。「彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」(マタイ7章6節)。

紀元前5世紀のギリシア哲学者の中に、「犬」を標榜した人たちがいる。開祖アンティステネスの教えを受け継いだシノペのディオゲネス、樽(甕)の中で暮らし、世間の規範に縛られない「犬のような生活」を送ったことから「犬儒(犬のような知者)」と呼ばれたことに由来する。最初こそ、市民たちからの蔑称だった「犬」という呼称を逆手に取り、彼は進んで自分たちをそう自称して、このように放言したと伝えられる。「私は、親切な人(施しをくれる人)には尾を振り、貪欲な人には吠え、悪党には噛みつくからだ」。ちなみに、犬にやるように、骨を投げつけてきた無礼な男に対して、ディオゲネスは「犬の格好をして、その男の足元に小水を引っかける」という痛烈なしっぺ返しで応じたという。

「コヘレトの言葉」は、多くの聖書学者から、「犬儒派」の語る文言との共通性が指摘されている。俗にいう「斜に構えたような」人生に対する姿勢が、その語られる言葉のここそこににじみ出ているが、他の聖書文書とは、肌触りの違う感触が、魅力的であるということもできるだろう。今日の個所には、様々な短い例示や喩えによりながら、彼らしい思考が思う存分に開陳されている。

まず1~3節「だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」。「死」が問題にされている。それはどんな人にも、「善人にも悪人にも良い人にも/清い人にも不浄な人にも」起こることであるという。「人の心は悪に満ち、思いは狂って」という言い方は、少しばかり辛辣すぎると思うが、「死」から目を反らしている、という意味合いである。宗教は大抵、人間のこの有り様を語るではないか、「朝に紅顔、夕べに白骨」の如くに。それを受けて4~6節「犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ」、「命あっての物種」という洞察を、蔑視されている「犬」に喩えて語るというのは、メリハリが効きすぎているようにも見える。とにかく死んだらお終いなのである。

但し、「死んだらお終い」という考え方も、ヘブライ人にとって当たり前の思考だったと見なされている。彼らは死んだら、地面の下に葬られて、いなくなってしまう、そこではもはやコヘレトも言うように「死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報い(報酬、あるいは罰)を受けることもなく/彼らの名は忘れられる」。少し「忘れられる」のが早すぎる。知り人が全くいなくなり、まったく忘れ去られた時が、ほんとうの「死」なのであるが、やはり「善い人」は永く憶えられ、「悪い人」はすぐに忘れられる、くらいは考えているのが、せめてもの人情である。とは言え、どんな人もいつかは「忘れられる」のである。すると人はどうなるのか、生まれてこなかったのと同じくようになる。余りに寂しいではないか、とは感じるが、それは聖書の人々も同じで、「神がご存じである」という所についの望みを託したのである。だから預言者から「神はあなたを忘れた、もはや思い出さない」と告げられるのは、一番の断罪であり、恐怖の宣言であった、ついの希望が全く絶たれるからである。

そこから7~10節の考え方が導き出されるのである。「さあ、喜んであなたのパンを食べ

気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる」、今日という時間、今日という日をかけがえのないひと日として楽しめ、あなたのすぐ側にいる親しい人、愛する者、家族と喜びを共にせよ、神はそんなことに目くじらは立てられない、と語る。もちろんコヘレトは刹那的ないい加減な導師ではない、「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には/仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」、最後は死だ、といっても破れかぶれになって、一切合切を放棄して生きることはできないだろう、この導師にも、そのくらいの良識は持ち合わせているようだ。「正論」とは思うのだが、そこまで割り切って、生きることに、抵抗も感じる。なぜなら家族とともに楽しむこともまた、決して苦労と無縁ではないからである。

11節以下には、さらに徹底した人生洞察が語られる。「足の速い者が競走に、強い者が戦いに/必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも/聡明だからといって富を得るのでも/知識があるといって好意をもたれるのでもない」。コヘレトは因果応報、努力至上主義や勧善懲悪的な硬直思考から、まったく自由になっている。そして「人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」ように、すべての事柄は「時と偶然」次第なのである。ただ悲しいかな、人は「時」に無知であり、どうするべきか見分けられない。

14節以下の「知恵の力」の逸話は、実際に起る事件でもあるだろう。『渡嘉敷小学校創立90周年記念誌』(渡嘉敷小中学校編1977年刊)の「奇跡」の項目で、「…那覇とは目と鼻の先にある我が前島こそ、その島である。当時、島には渡嘉敷国民学校の分教場があってH先生夫妻が教鞭をとっていた。或日のことS大尉なる者が部下を連れて島へやってきた。…先生は住民を守るために来られたのであれば、兵隊が居ること自体が住民の為にならないので、お引取り願いたいと隊長に申し出た。…この島にも米軍は上陸してきた。くまなく調べた結果日本軍が居ないことを知った米軍は、この島には一切攻撃はしないから安心して畑にも海にも出てよいと言い残して、その日のうちに引揚げていったとのことである。」の記述がある。将に戦火の及ぼうとする小島に住む、一校長の知恵と行動が、災いの及ぶのを回避させたという。「この貧しい人の知恵は侮られ/その言葉は聞かれない」とコヘレトは冷徹に断言するが、戦禍を回避したかの校長は、自分の名が覚えられることなど、どうでもよいことだったろう。彼は目の前の愛する隣人、子どもたちの生命の重さだけに心が集中し、そこからぶれていないのである。こうしたあり方こそ、知恵の発露ではないか。

「歴史の悲劇から人は何も学んでいない」という問いに対して、V.フランクルはこう答えている。「小さな英雄的な働きが、この世の破滅から何とか人類を救っているのでないか」。まことの知恵はまことの神から来るゆえに、神の名は覚えられることがあっても、自らの名は忘れられても、厭うことなく清々しくあるだろう。「現実はこうだ、きれいごと」という訳知り顔の人間にとって、欠けているのはこの「清々しさ」である。コヘレトもまたそうである。