「ただ一度」ヘブライ人への手紙9章23~29節

先の聖日には「敬老感謝」礼拝を共に守り、礼拝後には、米寿、白寿を迎えられた兄姉のお祝いの会を行い、喜びに満たされた。印象的なのは、お二人がご自身の人生の歩みの中での「原点」を詳らかに語ってくださり、「あの時以来」という人生を決定づける「時」について示唆深い言葉をいただいた。感謝したい。この国の「戦後」の時代のエポックとも重なっている「原点」でもあった。

最近、日野啓三氏と平野啓一郎氏の対談集を読んだ。「聖なるものを求めて」と題されている。このお二人とも「宗教性」を視座に据えた奥行のある作品を世に問うている作家である。「存在の不確かさ」と表題づけられている章のやりとり。日野「人間そのものが有限だから、人間の行なうこと、考えること、つくること、すべて有限ですね。けれども、有限さを思い知らされるのは、誰にでもある体験ではない。たとえば、ぼくは十六歳のとき外地で終戦を迎えてすべてをなくしたり、ベトナム戦争の特派員に出たり、歳をとってからガンで死にかけたりした経験があって、少しずつ人間的なものすべては有限だということがわかっていった。これは、必ずしも頭で考えてわかるというものではない」。平野さんの場合、何かそういう体験がありますか。平野「自分の過去を探っていって、自分の考え方を規定する原因が唯一あるとすれば、それは父の死だと思います。父は病気には縁のない人間だったんですけど、ぼくが一歳のときに、ある日突然心臓が止まって死にました。そのことはぼくの中では二つの意味がありました。一つは、ぼくの実存感覚の本質的な部分がそれで形成されてしまったことです。自分の心臓の鼓動を一つ、二つ……と数えるときに、三つ目が鳴っても次の四つ目が鳴る保証はどこにもないという気がして、特に十代のころは、たとえば友達と遊んでいても、ふと自分の心臓のことを考えると、こんなことしてられない、という気になりました。(そしてもうひとつは)物心がつく前に父が死んだことで、確かに存在はしたんだけれども記憶(実態)がない父ということがあります」。

違う年代に生きている二人の作家が、ひとつの共通する「原点」から作品を紡ぎ出していることが分かる。「あの時以来」という感覚が人間に及ぼす影響の大きさを考えるのである。戦後、この国の「平和」に見える日常の営みの中にも、突如として「死」によって、日常が破られるという経験が起こる。その「時」が人間には皆一様に訪れるのである。

今日はへブライ人への手紙に目を向ける。新約の文書の中でも、最も後期に書かれたと推測されている書簡というか論文である。非常に洗練されたギリシア語で記されているのに比して、手紙が問題にしている事柄は、妙に詳しく旧約の物語、またユダヤ教の習俗であり、ここから「ヘブライ人」という名称が付されたという経緯がある。そして本章では、ユダヤ教の神殿礼拝、祭儀とはいかなるものか、その意味が、細かく延々と紹介され論じられているところに特徴があるだろう。

この手紙の著者は、この章でユダヤ教というものの本質を明らかにしつつ、自分たちの信仰との決定的な差異を語ろうとするのである。初代教会の誕生した当初は、キリスト教という名称もなければ、新宗教という自覚もなく、ユダヤ教の一派(セクト)、教会外の人からは「ナザレ派」、自分たちは「義の道」として、自己理解をしていた。ところが紀元2世紀のこの時代になると、もはやローマ帝国によってユダヤの国は滅亡し、その総本山エルサレム神殿も見る影もなく廃墟となってしまっている時代であるから、教会の人々は、自分たちの信仰の独自性を自覚し、はっきり別の道の者たちと認識しているのである。ユダヤ教の1セクトではなくて、新しい信仰に自分たちは生きているのであると。

そもそもユダヤ教の本質とは何か、著者は「まことのものの写し」であるという。「模写」あるいは「コピー」のことである。昔、学位論文を書いたなら、複数の人に審査してもらわなければならない。原本とそれ以外に複写が数部必要だった。もちろん、自分が手書きで複写するのである。私が学生時代、ようやくゼロックスが普及し、本やらノートやら簡単に複写できるようになったが、それでも一枚刷るのに、店で100円払った記憶がある。それが今は、パソコンとプリンターで自宅にいても、いつでもすぐに、何枚でも安価で複写することができる。最近は、原稿や掲示をそのままスマホで撮影してお終い、という時代である。

但し、問題も生じている。単純、簡単にできることに、人間はすぐに鈍感になるのである。AIに任せれば議事録も要約も、翻訳も、絵でも音楽でも、要望に応じてすぐに苦労いらずで提示してくれる。おそろしく便利なのだが、「人間のやること」「人間だけができること」に何があるか、と逆に問われる時代である。完璧に自分の「写し」を作ってくれるのである。しかしすばやくそれができるということは、原本、オリジナルを勝手に利用したり、改変したり、自分勝手にやりたい放題にしてしまうことが起こる。この時代のユダヤ教ではないが、今も「まことのものの写し」の時代なのである。

ところで「まことのものの写し」と言われると、「偽物」とか「まがい物」という意味合いとして受け取ってしまいがちであるが、「写し」という用語に特に注意したい。これは音楽や演劇などの上演の喩えとして理解したらわかりやすいかもしれない。音楽も演劇も、その元々は、「楽譜」、あるいは「台本」に記されていて、その指示に従って「再現(繰り返し)」するのである。よほどの駄作、失敗作なら一度上演されてお蔵入り、となるかもしれないが、良い作品であると好意的に評価されれば、一度ならず二度三度、何度も何度も上演され、繰り返し演奏される。時には、一回限りで忘れられてしまったように思われる作品が、ふとしたことから、後の時代に再演されて好評を博すことがある。

ユダヤ教とはまさに「まことのものの写し」、「複写」の宗教である。神がかつて命じられたように、その戒めを忠実に繰り返すのである。神殿においての祭儀では、毎年毎年、繰り返し同じ神のみ言葉が高らかに朗読され、律法の規定にある通りに、生贄がささげられる。人々は律法の命じる通りに、安息日毎に、祭りの度毎に、同じ振る舞いを繰り返すのである。毎年、毎月、毎日同じことを繰り返すのでは、飽きるではないか、退屈するではないか、と思われるか。

ユダヤ教では、「戻るべき場所」は第一に「神殿」であった。何が起こっても「自分の戻るべき場所」、「神殿」に行けば、逸脱しない、道をそれない、破れてしまわない、安定、安心、安全を得られる。ところが肝心の「神殿」が失われてしまった。もはや戻るべきところがなくなってしまった時、彼らには「律法」が残された。但し、「律法」は自分が守らないならば、守れないならば、もはや神の恵みから、はじき出されてしまうのである。要は自分本位なのだ、私が律法のルーティンをたゆまず続けられるどうか、克己勉励の孤高の生き方が、救いのための条件なのである。そうして自分自身を「まことのものの写し」「コピー」にするのである。写すことができなければ、人生が何の意味も価値もなくなってしまう。しかし「わたしの存在、生命」は、単なるコピーなのか。生命の繰り返しのなかのコピーの一コマに過ぎないのか。

先ほどの対談で日野氏はこう語る「この世界、この宇宙には、一回限りで後戻りできない出来事が幾つかある。ビッグバンのことは別にしても、三十五億年前の海の中で化学変化が起きてDNAができてしまったら、生命は後には戻れない。同じように、十万年ほど前、文法の基本をもった言葉ができてしまった以上、言葉がない昔にはもう戻れないし、言葉にしなければあらゆるものが認識できなくなります。『言語を絶したもの』ということすら、言葉がなかったら言えないわけだから。言葉に縛られていくわけで、不自由と言えば不自由ですね。さらに、死の意識というものも同じように出てきます。死体なら猫でも感知するけれど、死という形而上学的事実というか、個々の死体じゃない死一般、私もいつか死ぬという意味での『死』」については、他人事ではおれない。「ただ一度」に決定づけられている。

今日の個所の最後の結語にこうある「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」。「ただ一度」という言葉が繰り返される。私たちは、人のふり見てわが身を直せ、の如く、ああしようこうしようと、人生を組み立てようとする。いわば「まことのものの写し」になろうと試みるのである。しかし、どんなにがんばっても、私たちは、素人が描く「写し」のようにしかなれないだろう。あちらがゆがみ、こちらが破れ、右が曲がり、左にへこむのである。しかしそのようなわたしの人生のすぐ前にお出でくださり、膝をついて抱きしめ、なだめ、介助し、共に居られる方がいる。その方は一度の人生に、「ただ一度」、他とは比べられない十字架の出来事によって、罪人と共に十字架につかれて、血を流され、生命つきるまでに、共にあってくださった。この神の「ただ一度」に、歩むのである。