祈祷会・聖書の学び ヨブ記19章6~27節

皆さんは、気が滅入る時、あるいは腹の立つ時、何をして気分を晴らすだろうか。そのまま「ただ我慢」では、堪えられないだろうし「能」がない。「カタルシス」という言葉がある。古代ギリシア語の「katharsis(カタルシス)」が語源で、もともとは「浄化」や「洗浄」を意味していた。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、その著書『詩学』の中で、悲劇を見て恐怖や哀れみを感じることで観客の感情が洗い流され、精神が安定するという演劇学の「悲劇論」として使ったのが始まりであるという。その後、精神分析で有名なジークムント・フロイトが、患者に抑圧された記憶や感情を語らせて症状を改善させる治療法(精神療法)を提唱したことから、心理学用語としても定着したとされる。

「ただ我慢」では人間やっていけない、と言ったが、「我慢好きな人」は、それもまた「自己浄化の手段」となるであろう。しかし、何でもかんでも発散できればいいとばかり、勝手にしたい放題するのも考えものである。「腹が立ったら、食べまくる」という方法も、「腹も身の内」、食べ過ぎれば健康に悪いことは言うまでもない。

兼好法師の「徒然草19段」に「おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つ(やりすつ)べきものなれば、人の見るべきにもあらず」。この著者は「筆にまかせつつ」随筆を記し、それらはくだらないものだから「破り捨つべきもの」と主張しているが、内心「人の見るべき」こと「評判」を密かに期待していることは、明白であろう。

ヨブ記2章の終わりで、身体じゅう悪いできものに覆われるという不条理な苦難を被った主人公ヨブは、灰の中にすわったと記される。その彼を慮って、3人の友人がどん底にあえぐヨブのもとを訪れ、自分たちも灰を被り、塵芥の中に共に座り、三日三晩、友の不幸を共にし、共に嘆いたと伝えられる。「まさかの時の友こそ、真の友」という諺があるが、共に灰の中に座するそれらの人々は、「真の友」と評するのにふさわしい者たちだろう。

ところがそこから、ヨブとこれら憐み深い友人たちとの「果てしない議論」が始まるのである。「おぼしきこと言わぬは」は、ユダヤ・ヘブライの精神性を如実に表すものである。彼らの議論は、聖書学では「神義論」と呼ばれ、「神がおられるのに、どうして不条理な苦しみがあるのか」、を巡る問いである。自然の災害や戦禍により、無辜の人々の生命が犠牲になるときに、必ず論じられる議論である。不条理の災厄が「神がおられる」ことの否定だとしても、そう説明した所で当事者の苦しみがなくなるわけではない。だから議論になるわけだが、人生の「不条理」について、万人を納得させる、ただ一つの答えがあるわけではないから、議論は延々と続くことになる。そしてユダヤの伝統では、「議論」というものは、相互に納得し合える何ほどかの妥協点を見いだし、双方が”Win-Win”に至るためのプロセスではない。腹の中をすべて吐き出し、もはや語るべきことはないとして、「黙る」まで辛抱強く継続されるという類の営みであったというから、本書の構成はその伝統に従っているということができるだろう。

しかしそういう「果てしない議論」の中に、ひとつ、ふたつ、光明を与えるような、霊感の輝きのような言葉が紡ぎ出される、それを見出すこと、そこがヨブ記を読む、最大の滋味なのかもしれない。今日の個所で、どこにそれを見出せるのか。

議論の流れとして、ヨブは自分の潔白さ、罪のないことを一貫して主張し続ける。友たちはヨブに自覚されない隠れた罪があることを主張する。そして議論の前提には、「神は義であって、断じて不正はなさらない」という神観念がある。ヘブライ的な思考では、「清濁併せ飲む」というどこかの国の政治家のような振る舞いとは無縁である。神は森羅万象の主であり、すべてを創造し、すべてを滅ぼすことのできる権能を持たれているが、「神の名」にもとるようなみわざをなされることはない、という神学である。こうした一貫した神の観念からすれば、ヨブの苦難の原因は、「隠れた罪」というもので説明されるのみである。

しかし、世の中を見れば、不条理な苦しみはここそこに転がっており、それが「隠れた罪」によるものだとしても、あの人は苦しみ、この人は苦しみとは無縁だ、という「不公平」がつきまとっているのである。それでヨブ記は、「果てしない、延々とした議論」が繰り広げられることとなる。それで議論に決着が与えられるかと言えば、ついに決着を見ないで、議論は閉じられるのである。既述のように。ヨブ記を読むことが出来るかどうかは、

「果てしない議論」の中に、ひとつ、ふたつ、光明を与えるような、霊感の輝きのような言葉を見出すことができるかどうかにかかっている。

今日の個所で、灰の中で苦しみ呻くヨブが、友人たちとの空しい議論、ただ平行線をたどるかのような言葉の応酬の中で、ふと漏らす、印象的なひとつの言葉が記される。25節「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。この「わたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る」方とはいったい何者なのか。非情なまでにヨブを苦しめる神がある。その御手に打たれて、苦しみ呻くのである。友たちは「隠れた罪」を認め、心から悔い改めるなら回復が与えられると諭すのだが、ヨブはこれをがんとして認めない。この辺りのやり取りに、通俗的な当時の因果応報信仰を克服しようという、ヨブ記の意図がはっきりと読み取れる。

しかし、この議論の膠着状態の中で、主人公は夢うつつのようにひとつの言葉を漏らす「わたしを贖う方は生きておられる」。「わたしを贖う方」、とは負債者の傍らに立って、その負債を引き受け肩代わりする者、という意味である。この「贖う方」と、あのヨブに苦しみを与えている非情な神とどう関係するのか、他の神がいるのか、それとも伝統的な神観念の破綻を告げるものか。ヨブの言葉は一時の幻のように断片的であり、論理の整合性は極めて脆弱であろう。しかし、聖書の神は、「わたしの神」と呼ばれることを否まない方なのである。因習的な「因果応報」を語る「神学」(現代でも無縁ではない)への挑戦が、ここにはあるのではないのか。

東北大震災から間もなくの2011年春に、イタリアの放送局が子どもたちからの質問に、ローマ法王が答える、という趣旨の番組が放送された。日本在住の7才の子どもは、法王ベネディクト16世にこう質問したという。「私はとても怖い思いをしています。大丈夫だと思っていた家がとても揺れ、同じ年頃の子どもがたくさん亡くなったり、外の公園に遊びに行けないからです。なぜこんなに悲しいことになるのか、神様とお話ができる教皇様、教えてください」。法王はこう返されたという「「私も『なぜこのようなことが。他の人々は平安のうちに生きているのに、なぜあなた方は苦しまなければならないのか』という同じ問いを持っています」、さらに「我々は答えを持っていませんが、罪なきキリストがあなた方と同じく苦しまれたということは知っています。イエスの生涯を通して来られた真実なる神は我々と共にいるのです」と答えたという。

不条理の苦しみについて、私たちは答えを持っていない。しかし、その中で神は「贖う方」として私たちと共にある。それを人となった神のひとり子、主イエスからその生命をもって示されたのである。