説教『世のすべての救い主イエス』(ルカ20:41~44)  主日礼拝説教要約 

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◎厳しい寒さが続いています。さて、1月15日に起こったバスの事故では15名の若者達の貴い命が犠牲となりました。犠牲者の父親が、今回の事故は「今の日本が抱える労働者不足や過度の利益追求、安全の軽視など社会問題で生じたひずみによって発生したように思えてなりません」と述べたそうですが、激しい競争の中で労働者と消費者の命、安全と安心が軽視されている中、私達は命を最優先する社会を取り戻すことが急務だと感じます。

◎さて、今日も聖書の御言葉から神様の御声・メッセージを聴いて参りましょう。今日取り上げる個所は、ルカ20:41~44です。短い箇所ですが、重要な箇所です。イエス様ご自身がご自分のことを語っておられる箇所です。マタイ福音書では論争記事となっています。続いてきた論争の最後の論争、締めくくりの論争と言えます。ここにはユダヤ人が抱いてきたメシア像を大きく超えるメシア像がイエス様ご自身によって示されています。

◎その冒頭の20:41にはこうあります。「イエスは彼らに言われた。どうして人々は『メシアはダビデの子だ』というのか」と。イエス様は、ルカとマルコでは律法学者、マタイではファリサイ派、それぞれに向かって「『どうしてメシアはダビデの子だ』というのか」と問いかけておられます。イザヤ11:1に「エッサイ(ダビデの父)の株から一つの芽が萌え出で、その若枝が育ち、その上に主の霊が留まる」とあるように、旧約聖書を読むと、ユダヤ人が自分たちのメシア・救い主はダビデの子孫から生まれると信じてきたことが分かります。イスラエル王国の分裂後、ペルシャ・ギリシャ・ローマなどの大国の支配に苦しんで来たユダヤ人は、やがて王国の黄金期を築いたダビデ王の子孫からメシアが生まれ、自国の独立と自由、繁栄を築いてくれると信じていたのでした。それは民衆の間にも広がり、人々はイエス様に向かって「ダビデの子よ、憐れんでください」と救いを求め、また、イエス様がエルサレムに入城された際にも「ダビデの子にホサナ」と歓呼して迎えたのでした。民衆もまた「メシアはダビデの子だ」と信じていたのであり、イエス様こそ、そのメシアであると期待していたのでした。

◎しかし、イエス様は、そのようなユダヤ人の王国を築くために来られた民族的なメシアではなく、また、ダビデ王のように武力によって地上の王国を築くようなメシアではありませんでした。では、イエス様はどのようなメシア・救い主なのでしょうか。20:42以下にはこうあります。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台にする時まで』と」。この詩編とはダビデが作ったとされる110編のことです。イエス様は、「この詩編は『神はわたしの救い
主にこう告げられた。「わたしの右の座に着きなさい」と』と言うのであれば、ダビデはメシアのことを救い主と呼んでおり、また、その救い主は神の右の座に座しておられる崇高な方である、そうであるならば、どうしてメシアがダビデの子なのか」と問いかけておられるのです。もちろん、イエス様もメシアはダビデの子孫から生まれるということは認めておられました。マタイ福音書・ルカ福音書にあるイエス様の系図もイエス様がダビデの子孫であることを認めています。しかし、その上で、救い主はダビデの子以上の方であったのです。

◎このことは、その時点では誰にも理解できなかったことです。しかし、後に、イエス様はこの世のすべての人の救い主であり、天地の造り主なる神の右に挙げられ、宇宙的な支配の座に着かれた救い主であることが分かったのです。ローマの手紙1:3には「御子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子に定められたのです」とあり、また、ヘブライ人への手紙1:2~3には「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の
本質の完全な現れであり、万物をご自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右にお着きになりました」とある通りです。つまり、後の初代教会の人々は、イエス様のことを罪から救い出して下さった救い主であると同時に神の子、神と信じたのです。ここに、ユダヤ人が信じてきたダビデの子孫としてのメシア像をはるかに超える救い主の姿がはっきりと示されているのです。

◎しかし、ここで私達が決して忘れてはならないことがあります。それは、イエス様が十字架にお架かりになり、その後、復活された救い主であると言うことです。イエス様は、いきなり栄光のメシアになられたのではなく、十字架の苦しみを通られて救い主となられた方です。私達は罪によって神から離れ、神に背き、神と隣人・自分自身を傷つけてきました。その罪をイエス様が担い、赦し、私達を罪から解放してくださった。そして、神と和解させ、神と共に生きるようにしてくださったのです。十字架とは私達とイエス様が交差しクロスする所です。十字架こそ私達が神様と、イエス様と出会う場所です。そのイエス様に出会うのは、ペトロやパウロと同じように私達が復活の主に出会い、私達の罪を赦す主に出会うことによってです。そのことを使徒言行録2章のペトロの説教が証言しています。イエス様は世のすべての者の救い主であり、神の子であることを証言しているのです。