説教『永遠の命・復活の命を信ず』(ヨハネ14:1~6、コリントⅠ15:50~56)

2016年10月30日       永眠者記念礼拝・説教要約

◎今日は10月最後の主日。この主日、鶴川北教会では永眠者記念日礼拝を捧げています。カトリックの教会では11月1日を、プロテスタントの教会では11月第1主日を「聖徒の日」と呼び、召天者を覚えて礼拝を捧げています。鶴川北教会では、これまで68名の方を、この1年間では3名の方を天に送りました。奥原一宏兄は昨年の11月29日に75才で、竹山晴夫兄は12月28日に100才で、今村一男兄は今年の3月30日に91才で天に召されました。3人の方に共通するのはそれぞれが死に直面して信仰の歩みを始められたことです。奥原兄は母とご自分の死に、竹山兄はご長女の死に、今村兄は実父・継父、戦死者の死に直面して信仰へと歩み出されました。

◎人間にとって死の存在は実に大きい。特に愛する者の死は辛く、悲しく耐えられません。夫・妻・父・母・兄弟・姉妹・我が子・友人・知人の死は私達自身の存在を脅かします。かつて牧会していた福岡の教会で熱心な信徒の夫がある日、突然、病死しました。その信徒さんは3年間、礼拝に来れなくなりました。時に愛する者の死は、残された者に罪責感を与えます。3・11の大震災の被災者の多くは失った家族を助けられなかった罪責感に苦しみました。まして自分自身の死に直面したならば平安を失い、不安と恐怖に脅えることでしょう。『死の瞬間』(キューブラー・ロス著)には死に直面した人間の心の動きが描かれています。死とは恐ろしい脅威だと言えます。

◎それでは、死からの救いはどこにあるのでしょうか。愛する者の死、また、自分自身の死を乗り越えさせ、解放し、私たちに安心と平安を与え、私達を力強く、豊かに生かす希望はどこにあるのでしょうか。聖書によれば、それは主イエスが約束された永遠の命、復活の命にあると言えます。今日は、死を乗り越える二つの命である、この永遠の命・復活の命について、聖書の御言葉を通して心に深く留め、私達の大きな希望としたいと思います。

◎最初に「永遠の命」とは何でしょうか。それは例えば、ヨハネ福音書14:1~6には最後の晩餐の席で主イエスが弟子達と別れる場面でこう語られています。「私の家には住む所がたくさんある。行って場所を用意したら、戻ってきてあなた方を迎える。こうして私のいる所にあなたがたもいることになる」と。これは天における神の元での主イエスとの再会、永遠に主と共にいること、永遠の命の約束と言えます。私達は地上の生を終えた後、天において主と共に生きる希望、天国での命・永遠の命へと招かれているのです。これは私達の大きな希望です。牧野信次先生がいつも紹介される英文学者の斎藤勇先生の歌、「わが家には一人欠けたり しかはあれど天にはひとり増し加わりぬ」と歌われた天における命こそ永遠の命と言えます。そのような永遠の命があるのです。

◎では、その根拠はどこにあるのでしょうか。それは主イエスの十字架の死と復活にあると言えるでしょう。主は自ら十字架へと向かわれ、十字架に架かり、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈りながら息を引き取られました。主は十字架上で私達の罪を担い、私達の身代わりとなってくださり私達の罪を赦してくださった。そのようにして主は私達と神との間に和解をもたらし、私達が神様へと向かう道、天国の道を拓いてくださったのです。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ父の元に行くことができない」(ヨハネ14:6)とあるように、私達は主を通って天におられる神の元に行けるのです。そこで主と、神とに出会い、また、愛する者と再会することができるのです。これはただ主の恵みであり、主の憐れみによるものと言えるでしょう。

◎次にもう一つの命、「復活の命」とはいかなるものでしょうか。それは例えば、Ⅰコリント15:52以下にこうあります。「最後のラッパが鳴ると(終わりの日、主が再び来られる日)、死者が復活して朽ちない者とされる。朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る」と。これは「自然な体から霊の体に復活する」(15:43)こと、不完全な私の命が完全な命となること、私の生が完成すること、霊と肉が共に完成されること、私の体がキリストの栄光の体に似せられることだと言えます。これも私達にとって大きな希望です。

◎その復活の命の根拠は、主イエスの復活にあります。そのことについて、Ⅰコリント15:20にはこうあります。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました。死が一人の人(アダム)によって来たのだから、死後の復活も一人の人(キリスト)によって来るのです」と。ヨハネ福音書11章に、病死したラザロが復活する場面がありますが、主は姉のマルタに「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。あなたはこのことを信じるか」と言われ、葬られたラザロを復活させます。ここには主こそ復活の主であり、命であることが記されています。主イエスこそ私達を復活させてくださる復活の命の主なのです。終わりの日に主は私達を復活させてくださる。これが私達に与えられた大きな約束であり希望です。この復活の命は今も生きて働いています。どんなに辛く苦しく希望が見えない時も、主は私達に生きる命と希望を与えてくださ
います。私達には永遠の命・復活の命が与えられるとの約束がなされている。ここに大きな希望があるのです。