説教『裁きを経て真の救いへ』(ルカ12:39~43)

2014年11月16日                主日礼拝・説教要約
説教『裁きを経て真の救いへ』(ルカ12:39~43)

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◎11月第3の主の日を迎えました。今、鶴川でも晩秋の美しい季節を迎えています。教会の暦では11月が1年最後の月です。夕日の美しさにたとえられる晩秋の美しい日々を感謝して過ごしたいと思います。
◎今日も聖書の御言葉を通して神様の御心を深く知り、その新しい命と恵みを受けて参りたいと思います。
今日取り上げる個所は、ルカ12:39~43です。今日の御言葉を聞いてどんな感想を持たれたでしょうか。戸惑われた方もおられると思います。「私が来たのは火を投ずるためである」「私は地上に平和ではなく、分裂をもたらすためにきた」という主の言葉には戸惑います。なぜなら、私達は「キリストは私達の平和です」「平和をつくり出す人達は幸いだ。彼らは神の子とよばれる」といった聖書の言葉を知っているからです。「平和ではなく分裂だ」という主の言葉は、どういう意味で、どう読んだらいいのでしょうか。
◎このルカの並行記事は、マタイ福音書10:34~39にもあります。こちらがよりストレートです。ここには「私は地上に平和ではなく剣をもたらすため」「敵対させるために来た」とあります。これをどう読んだらいいのでしょうか。その手がかりが10:37以下にあります。ここには3つのことが語られています。
第一は主イエスより父や母、息子、娘を愛する者は主イエスにふさわしくないと言うこと、第二は自分の十字架を担って主に従わない者は主にふさわしくないと言うこと、第三は主のために自分の命を失う者は命を得ると言うことです。この3つのことに共通していることがあります。それは、3つとも逆説的な真理を述べていると言うことです。逆説的真理とは、例えば「急がば回れ」というように、一見、逆のことを言いながら真理を述べている真理を言います。「急いでいるなら遠回りせよ」は逆のことを言っているようで真理を述べています。このマタイ10:37~39で語られているのも逆説的真理です。家族よりも主イエスを愛すること、避けたい苦しい十字架を担って主に従うこと、自分の命を捨てることで命を得ること、それらは皆、逆説的な真理です。この3つに教えに従うことこそ神への道・真理のへの道だと思うのです。
◎これは、言い換えれば、神の命・真の命を得たいなら、あるいは、本当に自由になりたいのなら何よりもこの世を捨てること、あるいは、この世の価値観から解放され自由になることが求められると言うことです。考えてみると、私達はこの世の価値観に縛られています。学歴・富・地位・役職などで自分や他人を評価しています。敗者より勝者を評価し、賞賛します。しかし、聖書の価値観はこの世の価値観と異なります。イエス様は「貧しい人達は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しんでいる人達は幸いである。その人たちは慰められる」と教えられ、実際、主はこの世の貧しい人達、弱い立場の人達と共に生き、その人たちに仕え、最後は、その人たちのために十字架に架かり死んでいかれました。主イエスはこの世に何のために来られたのか。それはこの世の価値観に縛られている私達を解放し、自由にして、神の真理にあずからせるためです。今の信濃町教会の設立者である高倉徳太郎牧師は、かつて東大法学部の学生でした。彼は植村正久牧師に出会い、洗礼を受け、牧師になるために神学校に入る決意をします。その決意を父親に手紙で伝えたら、父から「親を殺す気か」という電報を受け取り、苦悩します。しかし、徳太郎は牧師への道へと進みます。クリスチャンや牧師になることはこの世を捨てることだったのです。
確かに、この世を捨てることは苦しいことです。しかし、そこに、真の道があり、神の道があるのです。そして逆に今度はこの世の価値観から自由になった真理・真実によってこの世を正すことができるのです。
◎信仰の道を歩むことは、この世の価値観から自由になり、それを乗り越え、それを正していくということでもあります。『信徒の友』11月号に俳優となった須貝まい子さんの文章が載っています。かつて有名になりたい一心で俳優を目指していたのが、挫折を経て、神様のために演じることが俳優としての自分の使命だと思えるようになっていったと言います。この世の価値観から解放された時、自分の真の使命と役割が見えたのです。家族への愛も、神への愛・主イエスへの愛を最優先する時に真の愛へと変えられます。
◎ルカ福音書に戻ると、ルカ特有の記事があります。「私が来たのは火を投じるためである」の「火」は、「裁き」と「救い」の二つの意味を持っています。主イエスは私達を裁くため、また、救うために来られました。ではその二つを実現するためには何が必要でしょうか。「私が受けねばならないバプテスマがある。
それが終わるまで私はどんなに苦しむだろう」。このバプテスマ・洗礼とは、古き自分に死んで、新しく生まれ変わることを言います。主イエスにとってのバプテスマとは、十字架と復活です。主の十字架と復活によってこそ私達は裁かれ、救われます。私達は主によってこそ解放され、真の道へと歩めるのです。