説教『死後、悔いない生き方とは』(ルカ16:19~31)

2015年 4月12日          主日礼拝・礼拝説教要約
説教『死後、悔いない生き方とは』(ルカ16:19~31)

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◎ 4月の第二主日、復活節第2主日を迎えました。先週は、皆さんと共に主のご復活を祝い礼拝と祝会を持ちました。教会の暦も受難節から復活節に変わりました。新年度も始まり、教会も新たな歩みを始めています。今年度も復活の主の命を受けて互いに祈り合い、励まし合いながら主のために歩んで参りたいと思います。私達を力づけてくれるのは聖書の言葉です。今日も聖書の御言葉からイエス様の命と力、愛と恵みを受けて参りましょう。
◎ 今日取り上げるのはルカ福音書16:19~31です。この箇所は「金持ちと貧しいラザロ」として有名な箇所であり、私自身、学生時代によく取り上げられていた所で思い出深い箇所です。1980年代前半の当時は、南北問題が大きな課題として取り上げられ、貧しいアジア・アフリカに対して富める欧米諸国と日本の責任が問われていました。この箇所はそのような広がりを持つ御言葉ですが、ここはその根底にある私達と神との関わり・関係、私達と隣人の関わり・関係、私達自身の信仰と生き方が深く問われている箇所といえます。今日の御言葉は私達に何を問いかけ、伝えているのか。前半・後半に分けて、それぞれからメッセージを聞いていきたいと思います。
◎まず前半部分16:19~26を見て行きましょう。これは主が語られた話です。ある金持ちがいて、いつも高価な衣服を着て、毎日、ぜいたくに遊び暮らしていた。他方、その金持ちの門前にはラザロという貧しい人がいて、できものだらけの体だった。彼は金持ちの食卓から落ちる物でお腹を満たしたいと思い、門前に横たわっていたのでしょう。しかし、なぜ、貧しい人だけに名前がついていたのでしょうか。ラザロとは「神は助けてくださる」という意味です。彼は神の助けを求め、神の助けなしには生きていけない人だったのです。そのような貧しい人を神は覚えておられる。その意味で名前が付けられたのではないでしょうか。さて、その二人が死んで、貧しいラザロは天使達に連れられてアブラハムのそばにいたと言います。信仰の父と尊敬されたアブラハムのそばにいたということは、神様のそば、天国にいたということです。他方、金持ちは陰府(よみ)の国で苦しんでいます。
彼はアブラハムに向かって「父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください」と懇願します。しかし、アブラハムはこう答えます。「子よ、思い出すがいい。お前は生前、良い物をもらっていたが、ラザロは反対に悪い物を受けた。今、彼は慰められ、お前は苦しんでいる。
私達とお前の間には深い淵があり、それを超えて渡ることはできない」と。金持ちの懇願が聞かれませんでした。
◎これが前半の話ですが、ここにはどのようなメッセージが込められているのでしょうか。それは、神様は私達がこの世でどう生きたのかを死後厳しく問われるということ、しかも、この世の尺度ではなく、神様の尺度で問われるということです。金持ちはこの世で毎日ぜいたくに遊び暮らしたけれど、死後、陰府で苦しんだ。他方、貧しいラザロはこの世では貧困と病に苦しんだけれど、死後、天国に迎えられた。ここにはこの世とあの世の暮らしがまったく逆転した姿が描かれています。では、その裁きの物差しは何だったのでしょうか。それは神のお教え・聖書の教えです。聖書の教えとは何か。一言で言えば「神を愛し、隣人を愛すること」です。金持ちは毎日に贅沢に遊び暮らし、神様を求めることもなく、貧しい隣人に愛を施すこともなかった。他方、ラザロは困窮の中で必死に神を求め、神の助けの中に生涯を生きた。そのようなラザロの信仰を高く評価して彼を天国に招き、他方、金持ちは裁かれたのです。そのように神様は私達がこの世をどのように生きたのか、神を愛し、隣人を愛して生きたのかを問われるのです。私達はこの世の尺度ではなく神の尺度で生きて行くべきことを教えられます。
◎では、後半はどう展開しているか。16:27以下をご覧ください。ここには先ほど懇願を却下された金持ちがこう懇願する姿があります。「では、ラザロを遣わしてください。私には兄弟が5人おります。こんな苦しい場所に来ることがないようラザロからよく言い聞かせてください」と。それに対してアブラハムは答えます。「お前の兄弟達にはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けよ」と。金持ちはなお食い下がりますが、アブラハムはこう答えます、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があってもその言うことを聞き入れはしないだろう」と。これは何を言っているのでしょうか。それは、死後、後悔することがないように、この世をどう生きるかについては「モーセと預言者」、つまり、旧約聖書、神の言葉が教えている、だから、それに聞けということです。 聖書の教え・神の言葉とは何か。それは「主なる神を全身全霊であいすること」と「自分を愛するように隣人を愛する」ことです。それは十戒を初めとする律法に書きしるされています。
◎では、どのようにしたら、神への愛と隣人への愛の教えに耳を傾けることができるようになるのでしょうか。
それは十戒の序文にあるように「私を救い出してさった神の愛と恵みを深く思い起こすことによって」です。
私達がいかに神様に深く愛されていることか。神様は私達を罪から救い出すために独り子の命を捧げてくださいました。その神の深き愛を心に深く覚える時、私達は神を愛し、隣人を愛することができる者にされるのです。