説教『過ちから救い出される神』(創世記12:10~20)

2015年 4月19日          主日礼拝・礼拝説教要約
説教『過ちから救い出される神』(創世記12:10~20)

o_091

◎ 4月第3主日、復活節第3主日を迎えました。初々しい若葉も萌え出し、気持ちのいい季節を迎えています。
教会も新年度を迎えて、来週、教会総会が開かれます。新たな目標と課題に向かって共に歩んで参りたいと思います。今日も聖書の御言葉を共に味わい、そこから新たな命と力、希望と勇気、愛と恵みを受けて参りましょう。
◎ 今日は久しぶりに旧約聖書の創世記を取り上げたいと思います。創世記を取り上げますのは、今年の1月4日以来です。今日は創世記12:10~20を取り上げます。前回の12:1~9ではアブラハムが「あなたを諸国民の父とし、祝福の基とする」という神の約束と命令・召命を受けて約束の地カナンへと旅立ち、カナンに到着し、礼拝を捧げたことを見て参りました。ところが、今日の箇所では、その後、飢饉に見舞われて、エジプトに避難し、妻サラを妹だと偽って宮廷に迎えられたことが記されています。この記事を読むと、信仰の父と呼ばれたアブラハムの信仰はどこに行ったのかと怪訝に思います。しかし、ここには実に深いメッセージが隠されています。それは一体、どのようなメッセージなのか。今日はそのメッセージを皆さんと共に探って参りたいと思います。
◎ 早速、中身に入って行きましょう。前回の12:6以下によると、アブラハムはカナンの南、ネゲブ地方で暮らし始めました。ところが、その地方を飢饉が襲い、それがひどかったのでエジプトに下ったとあります。約束の地カナンに到着したら早速、試練が襲ったのです。ひどい話だと思いますが、このようなことはしばしばあります。希望して学校や会社に入った途端、難しい問題が起こる、受洗した途端、結婚した途端、苦難や試練が襲うことはよくあります。飢饉が襲った時、アブラハムは迷ったことでしょう。このまま定住か、避難か、帰郷か。
その末に彼はエジプトに下る決意をします。ナイル川の流れる豊かな土地エジプトに食糧を求めに行くのです。
◎しかし、このアブラハムの決断に問題はなかったでしょうか。神の声を聴いたり、神に祈った形跡がありません。
しかも、彼はエジプトに入る時、不安と恐れを感じます。美しい妻サラを連れて行くと自分は殺されるかもしれない恐れ、さらに向かって妹だと言ってくれと頼みます。何と自己本位なお願いでしょうか。妹だと偽って他の男の妻になったら姦淫の罪を犯すことになります。アブラハムは結婚を考えているのか。神様が結び合わせたものではないのか。また、子孫を増やすという神の約束をどう考えているのか。ここには信仰の父の姿はありません。アブラハムは間違ったことをしてしまうのです。彼は神から厳しく裁かれなければならないと思います。
そして、そのことは現実のものになります。サラの美しさに驚いたファラオの家臣はファラオに伝え、サラは宮廷に迎えられます。アブラハムは莫大な富を得ますが、大きな罪が犯され、神の約束は途絶えることになります。
◎この絶体絶命の時に神様が介入されます。神はファラオと宮廷の人々に恐ろしい病気に罹らせます。ファラオはアブラハムを呼び寄せ、なぜサラを妹だと偽ったのだと問い詰め、エジプトを出ていくように命じます。アブラハムは与えられた富と妻を連れてネゲブに戻って行ったのでした。これは偶然の出来事ではなく、神様がさなったことでした。罪を犯し、約束が途絶える危機、間一髪の所で、神様がアブラハムとサラを救われたのでした。
きっとアブラハムは自分の行ったことを反省し、悔い改め、また、神の救いに感謝し、信仰を深めたと思います。
◎そのような話ですが、ここにはどのようなメッセージが込められているのでしょうか。今日は三つのメッセージをお伝えして参りたいと思います。その第一は、人間は弱い者であり、罪を犯す者だということです。人はいざ試練が襲うと弱さを露呈します。アブラハムも飢饉に遭い、不安と恐れを感じてエジプトに入る時、大きな罪を犯しました。ここには人間の弱さと罪が示されています。伝道者パウロも「正しい人は一人もいない」と書いています。東大総長もなされた伝道者・矢内原忠雄先生も「私は罪人の一人にすぎない。私を仰ぐのではなく神を仰いでほしい」と書いておられます。人に頼らず人を絶対化せず、ただ神にのみより頼むことを教えています。
◎第二は、そのように罪を犯す私達を神様は守り、私達を過ちから救い出して下さるということです。アブラハムとサラは間一髪の所で助かりました。それは神様が介入してくださったからです。しかも、ファラオを通して助けてくださった。ファラオの「あなたは何ということをしたのか」は、神に代わって語った言葉と言えます。
そのように私達は色々な人によって、色々な出来事によって何度、救われてきたことでしょう。神様は私達を守ってくださる。私達は最終的にイエス様によって救われました。私達は救われ、守れていることを教えられます。
◎第三は、私達を襲ってくる試練・困難は私達を鍛えるため、鍛錬するためのものであるということです。今日の記事でもアブラハムには飢饉が襲い、エジプトでは試練が襲いました。それはアブラハムを鍛えるための試練だったのです。ヘブライ人への手紙12:6には「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる」とあります。神様は私達を我が子として愛しておられるがゆえに試練を与えるのです。アブラハムは神の試練を受けて信仰の父となっていきました。私達も試練を神の愛の鞭と受け止め、さらに成長していきたいと思います。