説教『真実は誰に明らかにされるのか』(ルカ23:1~12)

◎6月最初の主の日を迎えました。梅雨が近いことを感じさせる気候になってきました。6月は創立記念日礼拝が26日に持たれます。創立記念日を前にして信仰と教会の原点に立ち帰り、新たな歩みに備えたいと思います。今日、与えられた聖書の御言葉は、ルカ23:1~12です。23章に入り、十字架へ出来事へと進んで行きます。前回は主が最高法院で裁かれる場面を見てきましたが、今日の箇所は総督ピラトと領主ヘロデの尋問を受ける場面です。世俗の2人の権力者から主が尋問を受けられる場面を通して示されているメッセージを聴いて参ります。

◎まず、23:1に主が総督ピラトの元に連れていかれたとあります。それは死刑にする権限はローマの総督にしかなかったからです。祭司長らは3つの理由で主を訴えますが、いずれも偏りと偽りに満ちたもので、でっち上げと言わざるを得ません。それを受けてピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と主に尋ねます。主は「それは、あなたが言っていることです」と答えます。主はユダヤ人を初めとするすべての人の罪を十字架上で担い、赦した救い主であり、地上の王ではない。主は肯定しながらも言葉の正確な意味で異なることを指摘し、あなた自身の責任で判断しなさいと促します。ピラトは「この男に何の罪を見いだせない」と言いますが、祭司長らは「この男はユダヤ全土の民衆を扇動している」と訴えます。実に偏見と偽りに満ちた証言、事実を歪めた訴えです。

◎ピラトは、主がガリラヤ出身だと知ると、祭りの時に上京していたガリラヤ領主ヘロデの元に連れて行けと命じます。ヘロデはうわさに聞いていた主が来たことで喜びます。一度、ぜひ、会いたいと願っていたからであり、また、神の奇跡を見たいと思っていたからです。神の奇跡を見たいという好奇心のほかに、それを利用できないかと考えていたのでしょう。しかし、ヘロデが質問しても主はお答えにならなかったといいます。するとヘロデは兵士たちと一緒に主をあざけり、侮辱した後、ピラトの元に送り届けたと言います。これが二人の尋問です。

◎この箇所は、このように二人の世俗の権力者の尋問の場面を描いていますが、ここにはどんなメッセージが込められているのでしょうか。それは第一に、二人の権力者の姿を通して人間とはいかなる者かを伝えていると言えます。ピラトは「何の罪を見いだせない」と言いながら、無罪との判断は下さず、領主ヘロデの元に送ります。後の方で、ピラトは釈放しようと言いながら民衆を恐れて死刑判決を下します。つまり、ピラトは自分の地位と権力を守るために主をヘロデの元に送り、また、判決を撤回し、自己保身と責任転嫁の姿を見せているのです。ここに、権力者、いや、人間の姿を見ます。最近の東京都知事のニュースを見ても、それは今も変わりません。

◎もう一人の権力者ヘロデは、好奇心から主を喜んで迎えますが、それは主を自分の権力に取り込めないか、利用できないかという魂胆も隠れています。そして、主が尋問に答えず、自分の意の通りにならないと知ると、兵士と一緒になって主をあざかり、侮辱する。実に身勝手・自己本位・自己中心的な人物に思えます。そこには神の力さえも利用しようとする自己絶対化、自らを神と同列におこうとする権力者の横暴と傲慢さが感じられます。このように、ピラトとヘロデと言う二人の権力者は、私たち人間の持つ身勝手さ、自己本位、自己中心的で傲慢な姿、自分の地位や権力を守ろうとする自己保身、責任を他に押し付ける責任転嫁の姿をよく示しています。これは私たちにも迫ってきます。私たちもまた小さな権力者になっていないかと反省と悔い改めを迫ります。

◎それに対して、今日の記事が伝えている第二のメッセージは、主イエスの姿によって示されているメッセージです。特に今日の記事で迫って来るのは、主の沈黙した姿です。ルカではヘロデの前で沈黙する姿が書かれていますが、マタイ・マルコの両福音書では最高法院でも、また、ピラトの前でも主が沈黙しておられたことが書かれています。主はなぜ沈黙しておられたのか。それには二つの意味があると言えます。一つは、真実な問い・求めがあって始めて真実な答え・救いが示されるということです。ヘロデの問いかけには真実がなかった。だから、主は真実にお答えにならなかったのです。先週、紹介した森有正の言葉に「神様は自らを試そうとする人、例えば、神様は存在するのだろうかと思って探す人には姿を隠してしまう。そうではなく本当に心の底から呻きながら神を求める人、謙った人に自らを現す」があります。神様・イエス様が求めておられるのは、真実です。主は真理・真実・救いを心の底から真実に求める人にこそ真理・真実・救いをもたらして下さることを教えています。

◎主の沈黙が教えていることは、もう一つあります。それは、主がピラト・ヘロデ・祭司長らの罪を担われたということです。十字架上で主は「父よ、彼らの罪をお許しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。主の沈黙した姿はこの十字架上の主の祈る姿と重なります。初代教会の人達は、この沈黙する主の姿の中にイザヤ書53章7節の「苦役を課せられてかがみ込み、彼は口をきかなかった」と言う言葉を思い起こし、この苦難の僕・救い主を見ました。沈黙した主こそ私たちの罪を担った救い主であると信じたのです。私たちは、この沈黙する主の姿の中に、真実を求める主、私たちの罪を担われる救い主の姿を見るのです。