説教『復活の命に向かって走れ』(ルカ24:1~12)

2016年11月20日          主日礼拝・説教要約

◎11月も下旬に入り、木の葉も色づき、晩秋の風景が広がっています。今日は収穫感謝日。農作物、魚や肉など の食べ物、それらを育て、獲り、提供してくださった農家や漁師の方、それを育んだ自然、そして、すべてを備 えてくださった神様に感謝したいと思います。また、隠退牧師の先生方に感謝する謝恩日も覚えたいと思います。

◎さて、今日はルカ福音書を戻り、第24章の記事を取り上げます。最後の章である24章に入ったことに私自身、 深い感慨を覚えます。ルカ福音書を取り上げたのが2011年11月でしたから、丁度5年を経たことになります。 24章には主の復活について3つの場面が描かれていますが、今日はその最初の場面を取り上げ、復活の出来事 が私達にとってどんな意味を持つのか、また、どんな力を与えてくれるのかを一緒に見ていきたいと思います。

◎前回の23章の最後の記事には、十字架に架かり息を引き取られた主イエスのご遺体をヨセフが引き取り、新しい墓に収めたこと、そして、それを主に従っていた女性達が見届けたこと、その後、彼女達は家に帰り、香料と香油を準備したことが書かれていました。彼女達は、その日の日没と共に安息日に入ったので、安息日は何もできないために、安息日が終わってから主のご遺体に香料と香油を塗ってさしあげようと思い、その準備をしたのでした。安息日の終わった翌朝、週の初めの日、今の日曜日の明け方早く、女性達は墓に向かいました。墓に着くと、墓の入り口を塞いでいた大きな石は転がしてありました。墓の中に入ってみると、主の遺体がありません。そのために彼女達は「途方に暮れた」と書かれています。どうしたらいいか分からなくなり戸惑ったのでしょう。

◎この「途方に暮れる」という言葉は、今日の記事でも重要な言葉です。というのも、この「途方に暮れる」(アポレオー)という言葉が死に直面した時の人間の姿を端的に表しているからです。「アポレオー」という言葉は「道・橋・手段」を意味する「ポレオー」に否定する「ア」という接頭語が付いた言葉です。ですから、それは 「歩こうと思っていた道や渡ろうと思っていた橋が突然、なくなり、どうすることもできない」状態を表しています。例えば、これから人生を共にして行こうと思っていた夫や妻が突然、亡くなったり、従事していた仕事を突然、失ったり、命に関わる重い病が突然、襲って来たりして、どうしていいか分からなくなることがあります。この時、彼女達は、主の遺体が納められていた墓の中で主の遺体を見失い途方に暮れ、闇の中に陥ったのでした。

◎そのような時に現れたのが輝く衣を着た二人の御使い・天使でした。二人の天使は地にひれ伏した女性達に向かってこう告げます、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と。つまり、主イエスは復活して生きておられるというのです。さらに続けてこう言います、「ガリラヤのおられた頃、イエス様がお話になったことを思い出しなさい」と。つまり、主イエスはガリラヤで伝道されていた頃から、自分が十字架に架かった後、復活すると予告しておられたことを思い出しなさいと告げたのです。ここに「必ず復活することになっている」とありますが、これは神のご計画・神の必然性を意味しています。

◎そのような天使の言葉によって彼女達は主の言葉を思い出します。この「思い出す」という言葉も大事な言葉です。ルカ福音書では、主と同じように十字架につけられた犯罪人が「私のことを思い出してください」と主に向かって語ったこと、また、主の母マリアが主を身ごもった時、「主はその僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」と神を讃えています。そのように神が私達のことを思い出してくださる。私達もまた神のことを思い出す。神を思い出すことが信仰であると言えます。彼女達は主への信仰を取り戻したのです。そして、彼女達はこのことの一部始終を急いで11人の使徒達らに伝えました。彼女らは復活の伝達者になったのです。

◎ところが、それを聞いた使徒達は、その話はたわ言のように思えたので信じなかったと言います。主の予告の言葉を聞いていた使徒達は彼女らの証言を聞いても主の復活を信じませんでした。復活を信じることがいかに難しいかを伝えています。ところが、ペトロはそれを聞いて立ち上がり、墓に向かって走り出しました。なぜ、ペトロは走り出したのか。それは、主を裏切った負い目があり、そのことを主に詫びるためであったか。あるいは、主の祈りによってペトロは信仰を失っていなかったのか。しかし、この時、墓に向かってペトロは、主に出会うことはありませんでした。まだ、その時ではなかったのでしょう。これが今日の記事が伝えている話です。

◎それでは、この場面は何を伝えているのでしょうか。私には3つのことを伝えているように思います。第一は、人間の不信仰です。途方に暮れた女性達の姿。女性達の証言を聞いてもたわ言だと思い、信じなかった使徒達。いずれも人間の不信仰を表しています。第二は、その人間の不信仰を打ち破るのは神ご自身だと言おうことです。女性達の前に現れた二人の天使。主の言葉を思い出させた天使の言葉。ペトロを立ち上がらせた主イエスの祈り。それらは人間に信仰をもたらすのは神であり、主であることを伝えています。第三は、復活とは「立ち上がらせる」力であるということです。「立ち上がる」とは「復活」を意味します。復活とは立ち上がらせる力なのです。