2017年1月22日 主日礼拝・説教要約
説教『食卓を共にされた主イエス』(ルカ24:28~43)
◎今朝も寒い朝でした。今、1年で最も寒い時季を迎えています。でも、この寒さもあと少し。身体に気を付けて過ごして参りましょう。昨日はアメリカの新大統領が就任しました。私達としては、世界が平和に向かって進んでいくよう、多様性を重んじ、寛容で自由、共存と共生を大事にする世界になっていくよう祈りたいと思います。
◎さて、今日も聖書の御言葉から新たな命と力、愛と恵みを受けて参りましょう。今日取り上げるのは、ルカ24:28~43です。これまで取り上げてきたルカ福音書も、あと2回となります。前回は24:13~35を取り上げまし た。主の復活物語の中の「エマオへの道」として知られた箇所です。エルサレムからエマオへ向かう二人の弟子に復活の主が近づき、共に歩まれて聖書の話をしたこと、その時、二人の心は燃えたこと、家に着き食事をした際、主であると分かったこと、そして、二人はエルサレムへと引き返し、主の復活を伝えたことを学びました。
◎今日の話は、その二人の話を聞いていた時、復活の主が弟子達の真ん中に立ち、御自分であることを明らかにされたという話です。まず、24:36には「こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。エマオから帰った2人は弟子達の所で復活の主に出会ったことを話していた時、復活の主が弟子達の真ん中に立たれたと言います。主は、弟子達の目の前に堂々とはっきりとご自分をお現しになったのです。そして、驚く弟子達に「平和があるように」と言われた。平和はヘブライ語で「シャローム」です。この言葉は挨拶の言葉というよりも、主のメッセージが込められた言葉だと言えます。つまり「私はあなた達の罪を贖った。あなた達と神様との間に和解がなされ平和が生まれた。だから安心しなさい。あなた方には平和・平安があるのだ」、そう、主は平和のメッセージを告げておられるのです。しかも、復活の主は突然、現れ、突然消える。まったく自由です。ということは、復活の主はいつでも、どこにもおられる。どんな時で私達と共にいてくださる。平和と平安を与えてくださる。そのことも教えておられます。
◎ところが、弟子達にはそれが伝わりません。主を見た弟子達は亡霊だと思い、恐れおののきます。ここには彼らの不信仰が表されています。しかし、そういう弟子達に主は優しく言われます。「なぜうろたえるのか。どうして疑いを起すのか。私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触って良く見なさい」、そう言ってご自分の手と足をお見せになったのでした。この記事はヨハネ福音書20章の記事を思い起こさせます。疑った弟子トマスに対して主は手と脇腹に傷を見せて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と教えたところ、トマスが「私の主、私の神よ」と信仰を告白した場面です。ところが、ルかはそれでも信じない弟子達の姿を書いています。
◎24:41には「彼らが喜びのあまり、まだ信じられず、不思議に思っているので」とあります。弟子達は復活の主かもしれないと思いながらも半信半疑であったのです。これは主の復活を容易に信じない私達の姿を表しています。すると、主は「ここに何か食べ物はないか」と尋ね、弟子達が焼いた魚を一切れ出し出すと主はそれを食べたと言います。主はそこまでして弟子達に自分が復活したことを示そうとされたのです。これはルカ福音書だけに記されている記事ですが、ここには復活の体には手足があり、食べることもでき、しかも、その姿を自由に現すことができることが分かります。この辺りのことについては、伝道者パウロがコリントの手紙Ⅰの15章で「霊の体」と記していることと重なります。いずれにしても主は御自分が復活したことをご自分の手足を見せ、また、触らせ、焼魚を食べて、弟子達に懸命に示そうとされたことが良く分かります。それは主が十字架によって弟子達を救われたこと、復活したことによって罪と死に勝利されたことをはっきりと教えるためだったと言えます。
◎この焼魚を食べた主イエスについて、作家・椎名麟三は『私の聖書物語』(中公新書)においてこう書いています。「全くあの復活したイエスが、生きているという事実を信じさせようとして真剣な顔で焼魚をムシャムシャ食べている姿は、実にこっけいである。だが、私にとっては、そのイエスに、イエスの深い愛を感ずると同時に神のユーモアを感ぜずにおられなかったのである」と。「深い愛」とは何か。それは、主イエスが自分を捨てて復活した自分を信じてもらおうと懸命になっているのは、弟子達のためであったからです。弟子達に「あなた達は救われたのだ」ということを信じてもらおうと主は懸命だったのです。それは主の愛から出たことなのです。
◎「神のユーモア」とは何か。ユーモアについて、宮田光雄先生は『キリスト教と笑い』(岩波新書)においてこう書かれています。「ジョークが裁判席に着いているのに対し、ユーモアはその席から降りて裁かれる者と共感する。ジョークが分断し破壊するのに対し、ユーモアは結ばせ、また、解放する。ユーモアを持つ者は自分自身の弱さを含めてこの世の弱き者に対する理解を持つ」と。このユーモアは信仰から生まれます。絶対的な神の前においてこそすべてが相対化されるからです。主は救い、解放し、自由にしてくださいました。主の救いは、「解放としての笑い」の力を持っているのです。復活の出来事は主の深き愛と神のユーモアを教えているのです。