説教『伝道の開始、弟子の招き』(マルコ1:14~20)

2017年2月19日           主日礼拝・説教要約

説教『伝道の開始、弟子の招き』(マルコ1:14~20)
◎2月も後半に入り、先週は春一番が吹き荒れました。しかし、まだ寒暖の差が激しく、本格的な春までは、あと 少し待たなければなりません。こうして1月2月と寒さが続く中、改めて春は待ち遠しく思います。四季の中で春の到来が最も待ち望まれます。この春の到来が待ち遠しく思うにつれ、聖書が告げる神の国の到来の待ち遠しさを重ねて思わされます。特に苦難の歴史を歩んで来たイスラエルの民・ユダヤ人にとって神の国・救いの到来は日々、待ち遠しく待ち望まれてきました。今日、取り上げる聖書の言葉、マルコ1:14~20が伝えているのも、その神の国が近づいたという福音、喜びの知らせ・ニュースです。ここからメッセージを聞いて参りましょう。

◎前回は、主イエスが洗礼を受けられ、神の祝福を受けられた後、霊によって荒野に連れて行かれ、そこでサタンの誘惑・試練をお受けになったという記事を取り上げ、誘惑に打ち克たれた主イエスの深き信仰を見てきました。それに続いて今日は、ガリラヤにおける伝道の開始、弟子達の招きという2つの場面を取り上げて参りましょう。

◎最初の場面は1:14~15の「伝道の開始」の場面です。洗礼者ヨハネが捕えられた後、主は伝道を開始されます。ヨハネは領主ヘロデ王がその兄弟の妻ヘロディアを奪い、自分の妻としたことを強く批判したために捕らえられますが、この出来事をきっかけとして主は神の福音をガリラヤで宣べ伝え始められます。なぜ、ガリラヤなのか。マタイ福音書4:12以下によるとイザヤ書に預言されているからです。暗黒の地・死の陰の地であるガリラヤに光が射し込むというのです。主はその地で神の福音を宣べ伝え始められます。「宣べ伝える」とは、王の命令・布告を伝えること、または、王子の誕生など出来事を伝えることを言いました。主は神の名代として神の出来事を宣べ伝えたのでした。神の出来事とは「神の福音」です。「神の福音」とは「神の子・イエス・キリストの福音(1:1)」、つまり、神の子イエス様が救い主となられたという喜びの知らせ・ニュースです。それは旧約において約束され預言されていたことの成就です。ユダヤの人々が待ち望んで来た救いの到来の知らせとしての神の福音です。その神の福音をガリラヤにおいて宣べ伝え始められた。これが「主の伝道の開始」の出来事です。

◎続く1:15では主が宣べ伝えた福音がこう伝えられたと言います。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。ここには大切な3つのことが伝えられています。第1の「時は満ちた」とは「人類の歴史を画する特別な時、救いが到来する時、救いが実現する時が来た」ことを伝えています。第2の「神の国は近づいた」とは、「神の恵み・神の愛・神の平和・神の救いの支配が近づいた」ことを意味します。いずれも、救い主としてのイエス・キリストの到来を指しています。第3の「悔い改めて福音を信じなさい」とは、この救い主の到来に備えて、自分の生き方を方向転換することを呼びかけています。悔い改めとは、メタノイア、方向転換を意味します。まったく新しい時代に備えて、自分の方を向いて生きる生き方から神と隣人を向いて生きる生き方への方向転換を呼びかけているのです。「福音を信ぜよ」とは「福音に信頼してその中に身を置いて生きること」「救い主イエスに信頼して身をゆだねて生きる」ことです。主はそのことを人々に宣べ伝えたのです。

◎今日の第二の場面は、伝道を開始された主がその際になさったこと、「弟子を招いたこと」です。しかし、なぜ、主は伝道を始めるにあたって弟子たちを招いたのでしょうか。それは第1に伝道は一人ではできないからです。伝道は共に祈り、共に助け合い、支え合いながらするものです。個人でするものではなく、教会として行うものだからです。第2に、主と伝道を共にすることで主を証しする証人とするためです。主が目指すものは十字架と復活でした。そのことを痛みと共に味わい、体験し、目撃した弟子達が主の証人となり、主の昇天と聖霊降臨後、教会が誕生しました。主は、伝道を開始するにあたり、先々のことを見通し、考えて弟子達を招かれたのです。

◎そのような思いでガリラヤ湖のほとりを歩いていた時に最初に目を留められたのはシモンとその兄弟アンデレです。二人はガリラヤ湖で漁をしていました。主はその二人をじっとご覧になり、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけました。「人間をとる漁師」とはユーモアを込めた表現ですが、これはエレミヤ書16章の言葉で、終わりの日における神の審判の際に漁師が人々を網で捕えるという意味で使われています。ですから、主は「時が満ち、神の国が近づいた」終末的な時に、人々を救いへと招く伝道者としようという意味で弟子達を招かれたのです。その主の招きに二人はすぐに網を捨てて従います。さらに、この後、主は舟の中で網の手入れをしていた2人の兄弟ヤコブとヨセフをも招き、二人は父や雇人を残して主に従います。

◎しかし、なぜ、4人は主に従って行ったのでしょうか。同じ場面を描いているルカ5章ではその経緯を書いていますが、マルコは一切、書いていません。それは、主に従った理由・根拠が弟子達の方にあるのではなく、主の方にあるからです。つまり、4人が主を選んだのではなく、主が4人を選ばれたのです。私達が信仰を得たのも私達の方に根拠があるのではなく、私達を選んだ主の方に根拠があるのです。主の招きとは主の選びなのです。