説教「神が選んだ12人の使徒」(マルコ3:7~19)

2017年5月21日           主日礼拝・説教要約
   説教「神が選んだ12人の使徒」(マルコ3:7~19)

◎今、若葉が美しい季節を迎えています。昨日は、農村伝道神学校のグラウンドでバーベキューの会を持ちました。農伝の森の若葉が輝いていました。そのような豊か自然の中で教会の交わりを持てたことをうれしく思いました。今年も様々な所で教会の交わりが持たれると思いますが、教会の交わりが一層豊かにされていくよう祈ります。

◎さて、今日も聖書の御言葉からメッセージを聞いて参りたいと思います。前回は、安息日を巡る問題を取り上げました。主は「人のために安息日があるのであり、安息日のために人があるのではない」と語られ、安息日、さらに律法とは人のためにあると語られ、本末転倒に陥ってはならないと警告されたのでした。しかし、イエス様の考えとファリサイ派の考えの溝は埋まらず、ここでファリサイ派の人々は主を殺す計画を立て始めたのでした。

◎それに続くのが今日の箇所です。ここには前半で大勢の群衆がイエス様のところに押し寄せたことが、後半では主が弟子達の中から12人を選び、使徒に任命されたということが書かれています。今日はこの二つの記事を取り上げ、ここに込められているメッセージを聞いて参ります。まず、前半から見ていきます。冒頭の3:7には「イエスは弟子達と一緒に湖の方へ立ち去られた」とあります。前回の最後でファリサイ派が主を殺す計画を立て始めたとありましたが、主は彼らと直接、対決することを避け、ガリラヤ湖に退かれたのでした。今は対決の時ではない、神に祈る時だと判断されたのです。ここに、時を見る主、祈りを大切にする主を見ることができます。

◎ところが、そのような主のところに大勢の群衆が押し寄せてきます。ガリラヤ・ユダヤだけでなく、周辺諸国・地域からも集まってきました。ユダヤ人だけでなく、異邦人・外国人も主に救いを求めてきたのです。特に多いのが病気の人でした。「神の鞭・罰」とされた病気を主は癒しました。その姿に人々は救い主の姿を見たのです。

◎ところが、主は弟子達に小舟を用意させます。それは群衆に押しつぶされないためでした。これは、押し寄せる群衆から距離を置かれたことを意味します。それは群衆の願いや期待に距離を置く必要があったからです。群衆の願いや期待に応えるという生き方を選べば、主はユダヤ人の王・地上の王に祭り上げられるでしょう。主にとって大事なことは神の使命を果たすこと、十字架に架かり、人類の罪を担い、罪を赦していただくという使命を果たすことでした。そのために距離を置かれたのです。主の十字架への自覚と道はもう始まっていたのでした。

◎このことは、汚れた霊を厳しく戒められたという出来事にも言えることです。汚れた霊は、神に敵対していますから神に対しては敏感です。ですから汚れた霊は一目で主イエスは神の子だと見抜きました。すると、主はそのことを言わないように汚れた霊に厳しく戒められます。それは、主が神の子だということは十字架と復活の出来事によって初めて明らかにされることだからです。主は十字架にお架かりになって初めて神の子となるのです。

◎そのように主は大勢の群衆と距離を置こうとされますが、他方、群衆に対して深い憐れみをもってご覧になられていました。マタイ福音書9:35には「群衆が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを 見て深く憐れまれた」とある通りです。しかし、続けてこうおっしゃいます。「収穫は多いが、働き手は少ない。収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。主は、弱り果てた群衆の中にやがて福音によって立ち上がり、豊かな実を結ぶ姿を見ておられたのです。だから働き手が必要だと考えられたのです。

◎主は押し寄せる群衆、弱り果てた群衆の姿を見て、12人の使徒を立てる決意をされます。それが後半、3:13~19の12人を選ぶ話につながります。ここから主の伝道活動の新たな段階に入ったと言えます。主は12使徒を選ぶに際して山に登ります。山は神に出会う所です。主は、山に登り、これと思う人(神の御心に適った人)を12人選び、使徒に任命されます。12人とはイスラエル12部族に代わる「新しい神の民」をイスラエルの全部族だけでなく全世界に求め、選ぶために派遣する人達を意味します。「使徒」とは「遣わされた人」の意味です。主に従う弟子から、主から遣わされる使徒に変わります。私達も使徒です。神からこの世へと派遣される使徒です。主の使命を果たすために、毎週の礼拝の最後に祝福を受けた後、私達は主からこの世に派遣されるのです。

◎では、使徒を任命した目的は何でしょうか。それは第一に主のそばに置くためです。主のそばにいて主のなさることを見聞きし、主の証人となります。第二は、派遣して宣教するため、また、悪霊を追い出す権能を持たせるためです。使徒とは伝道と奉仕・癒しのために働くのです。これは私達も同じです。私達は、主の証人として主のことを証しし、主の福音を宣べ伝え、主の愛を受けて、愛をもってこの世のすべての人に仕えるのです。

◎最後に3:16~19に12人の使徒の名前が記されています。これを見るといかに個性的で多様な人達かと思います。そこには考え方の違いがあります。親ローマのマタイもいれば、反ローマのシモンもいる。また、すべてが欠点を抱えた弱き人々です。そこには裏切ったユダも選ばれています。それなぜか。それは、十字架の罪の赦しなしには生きていけない人を選んだからです。十字架によって罪赦されて神と人とに仕える者が主の使徒なのです。