説教「信仰と教会を生み出した聖霊の恵みと力」(使徒言行録2:1~11)

2017年6月4日  聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝・説教要約
 説教「信仰と教会を生み出した聖霊の恵みと力」(使徒言行録2:1~11)

◎6月最初の主の日を迎えました。今日は、梅雨入り前のさわやかな天気になりました。今日は、ペンテコステ・聖霊降臨日です。主が復活されてから50日目に聖霊が降り、一人一人が主の証人となり、世界中に福音が宣べ伝え始められ、教会が誕生した日です。今日は、聖霊降臨の意味を今一度、心に留めて参りたいと思います。

◎さて、聖霊降臨の話の前にペンテコステについて話します。使徒言行録に2:1に「五旬祭の日が来て」とあります。ペンテコステとはギリシャ語で50日目を意味し、五旬祭=50日祭を指します。ペンテコステはユダヤ教の三大祭の一つです。それは元々、初夏に行われる小麦の収穫を祝う収穫祭でした。それが後に春の過越祭(モーセによる出エジプトを記念する祭り)の50日目にモーセがシナイ山で十戒を授与された日として祝われました。イスラエルの民によって十戒・律法を授与され、神の民とされた大事な日。それがペンテコステ=五旬祭です。

◎この五旬祭の日に全国・全世界からユダヤ人が集まったところに聖霊が降り、福音の世界宣教が始まり、教会が誕生しました。その意味で、聖霊降臨日は教会の誕生日・世界宣教の開始日と言われます。それでは、その聖霊降臨がどのような経過で起こったのかを最初に見ておきます。まず、使徒言行録1章によると、主は復活されてから40日間、使徒たちの前に現れ、神の国について教えられます。そういうある日、主は「父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受ける」と言われます。その後、主が復活されて40日目にエルサレム郊外のオリーブ畑という山で皆が見ている前で天に昇り、天に帰って行かれました。その前に主はこう言われました。「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を得る。そして、地の果てに至るまで私の証人となる」と。そう言って主は天に昇って行かれたのでした。

◎その後、使徒たちを初めとする婦人達、主の家族ら120人は一つになって祈ります。祈り始めて10日目、主の復活から50日目に聖霊が降ったのでした。これが聖霊降臨日・ペンテコステです。聖霊という神の賜物は祈りて待った時に与えられました。信仰とは祈って待つことだということを教えられます。これは一つの教訓です。

◎さて、そのようにしてエルサレムの、とある家で一つになって祈っている時に突然、聖霊が降ります。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人に留まった。すると一同は聖霊に満たされ霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出した」と言います。その後、大勢のユダヤ人が駆けつけ、使徒達が世界各地の言葉で語っているのを聞いて驚きます。さらに、ペトロが「主イエスこそ救い主だ」と証言し、多くの人が心打たれて受洗し、そこに教会が誕生したと言います。

◎では、この聖霊降臨はどのような意味を持っているのでしょうか。特に注目したいのは聖霊が降った後、聖霊に満たされた人々が世界中の言葉で語り出したということです。ここにはどんな意味があるのでしょうか。その意味を知るために、それとは対照的な「バベルの塔」の話を見てみます。バベルの塔の話は創世記11章に記されています。話の舞台は文明が栄えたメソポタミアです。町の人々は天まで届く高い塔を建てて有名になろうと考えて、高い塔を建設します。ところが、神様はそれをやめさせようとします。そのために言葉を混乱させ、通じなくさせます。すると、人々は塔の建設を止め、世界中に散っていったのでした。この話は何を伝えているのか。それは人間が神に近づこうと高い塔を建てようとして分裂したこと、つまり、人間の高慢・傲慢が人と人との間のコミュニケーション・交わりを壊したこと、人間の傲慢が相互理解を妨げたということではないか思われます。

◎人間の傲慢によって人間関係が破壊されることは、私達にとって身近な問題です。夫婦間や親子間など家族において、職場や地域、国同士などで人間の傲慢が日々、争いや衝突を生み、悲劇を生み出しています。昨今の日本や世界の各国で指導者の傲慢によっていかに困った事態が起こっているかを日々、実感させられています。人間の傲慢は「天まで届こうとすること」、つまり、自分が神の如くなろうとする、いや、神になろうとするところに生まれます。創世記が第3章描いているのは人間の罪・傲慢であり、その人間の傲慢がいかに悲しい悲劇を生み出しているかということです。人間の傲慢は神との関係を断つばかりか、人間関係も断ち切ってしまうのです。

◎それに対して聖霊降臨の出来事で起こったのは、世界中の言葉で神の出来事を語りだしたと言うことです。神の出来事とは主イエスの十字架と復活の出来事、救いの出来事です。その福音を世界中の言葉で語り出したのです。世界中の言葉で語ったということは、相手の言葉・聞く側の言葉で語ったということです。バベルの塔では相手の言葉ではなく自分の言葉を一方的に語ったために分裂が生じました。しかし、聖霊降臨では自分の言葉ではなく、相手の言葉で語った。相手の言葉で語れたのは愛と思いやりがあったからです。だから、そこには分裂ではなく和解と一致、統合が生まれ、主にあって一つとされた神の家族・教会が生まれたのです。聖霊とは神の霊・キリストの霊であり、人を謙虚にさせ、愛と思いやりの心を生み出し、信仰を生み出し、教会を生み出すのです。