「あなたがたは招かれて」コロサイの信徒への手紙3章12-17節

昔、アメリカの国内線の旅客機に乗った時のこと、隣席には幼稚園生くらいのお子さんが座っていた。数時間の旅なのだが、遊ぶものもなく、所在なくつまらなそうにしていた。「袖擦り合うも他生の縁」で、手直にあった雑紙で、昔、幼稚園の時に習ったなつかしい折り紙をいくつか折ってあげた。お子さんは、瞳を凝らして折り紙が折られて行く様子を見ている。こんな小さな出会いでも、心に良い思い出を残してくれるものである。

広島の平和公園には、たくさんの折り鶴、千羽鶴が送られて来る。これは被爆し白血病を患った一少女が、病からの回復をひたすら祈りつつ、病床で折り鶴を折ったことに由縁を持つという。今も一年で一千万羽の折り鶴が届けられる、重さにして10トン余りの量になるという。平和記念式典でもしばしば映し出されるように、膨大な数の千羽鶴が、少女の像の傍らに飾られている。では、飾られた折り鶴は、その後、どうなってしまうのか。

こういう文章を読んだ「手紙に同封されていたのは一冊のノートだった。とてもきれいなノート。表紙にハトのデザインがあしらわれ、めくると台紙にすきこんだような色とりどりの小さな紙がちりばめられていた。パッケージに『この商品は折り鶴再生紙でできています』。広島市の会社が取り組む『リ・オリヅル』プロジェクトで、平和記念公園に寄贈された年間1千万羽に上る折り鶴を、市から提供を受けて生まれ変わらせている。送り主は、夫の転勤で46年前から広島で暮らす島根出身の女性」(9月11日付「明窓」)。ある新聞記者のもとに、未知の方から手紙が送られて来た。そこに同封されていたのが、「リ・オリヅル」プロジェクトの製品であったというのであるが、折り鶴は俗にいう「リデュース」されてノートに生まれ変わっていたという。その会社のHPによれば「折り鶴は、一定期間保管された後、授産施設へ贈られ、一羽一羽解体、色分けし、水に溶かして『折り鶴再生紙』へと生まれ変わります。そこへ、新しいデザイン価値を与えるクリエイター、それをカタチにする製造業に加え、就業支援施設、障がい者、事情があり外で働くことが難しい主婦など、『Re:ORIZURU』ができるまでには、多様な方々が、自らの得意分野やできることを活かしながら関わっています」。

2節「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのです」、この章句から始まるパラグラフは、「あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」という文言まででひとつの纏まりを形づくっている。あなたがたは「選ばれ」、「招かれた」、と呼びけられるのだが、これは当時の「信仰」という見地からしたら、おかしな真逆の表現なのである。古代の普通の考え方では、人間の側が、「この神」と見込んで、多くの神々の中から「選び」、立派な住まい(神殿)を建てますからここに住んでください、と「勧請(招き)」し、たくさんの供物を捧げますから、豊かな恵みを施してください、と祈願と奉仕(サーヴィス)をすることで、はじめて人間と神との関係、即ち「信仰」が成り立つのである。だからもし自分たちが選んだ神が、恵みを施そうとしないとなれば、人はその神を捨てて、追い出すのである。ここでは圧倒的に人間の側がイニシアティブを持つことになる。

ところが聖書の信仰理解は、それを正反対なのである。旧約の古い信仰告白伝承は、こう宣言する。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(申命記7章6節)。神が人間を選ぶ、というのは、古代の感覚からすれば、異常事態なのである。しかも、その選んだ相手は、「ほかのどの民よりも貧弱であったから」と理由づけられるのである。ここまでくると論理破綻とも言える。これがイスラエルの選民思想の中核なのである。

さらにこの「選び」の考え方は、新約において、主イエスのみ言葉にも、そっくりそのまま繰り返される。主イエスは弟子たちに告げられる「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ福音書15章16節)。この主のみ言葉は、イスラエルの伝統的な「選びの神学」を根底に持つが、ギリシャ・ローマのヘレニズムの時代でも、これは常識外れの感覚なのである。それゆえあなたがたは「聖なる者とされ、愛されている」と今日のテキストは語るのである。「聖」とは一般に「きよい」という意味だとされるが、清浄とか清潔とか、いうような、衛生観念を表すものでも、正直とか無垢とか倫理的な潔癖さを表すものではなく、最も基本的な意味は、「区別された、外れている、部外品、アウトレット」というように、普通の感覚を逸脱している、というような表現なのである。よりにもよって、どの民よりも貧弱な民に手を伸ばし、これに寄り添い、共に歩もうとするというのは、度外れた振る舞いに違いない。主イエスもまた、貧しく、病を抱え、罪人と呼ばれた人々と共に生きられた、これを聖書は「聖」という言い方で、神のみわざとして語るのである。

この「選び」、即ち「聖」、「愛」、「招き」は、民族や集団を越えて、今やひとり一人の人間の人生にもたらされる。12節以下「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。

主イエスは、この神の選びを、神の招きを、譬話として私たちに教えてくださった。ある人が盛大な晩餐会を催し、多くの人々が招かれた、というのである。ところが招かれた人々は、宴会の直前になって、皆一様に断り始めたというのである、今でいう土壇場キャンセルである。最近は携帯が普及したので、ドタキャンが増えたと言われる。手元の小さな機械で、顔も合わせず、ちょいちょいと簡単に断ることができるようになったから、と言われる。「畑を買ったので、牛を買いました、結婚したばかりなので」、これらの断りの理由は、みな言い訳に聞こえる。その通り、いい訳なのだが、なぜ皆、断ったのだろうか。

今もそんなところがあるが、古代では、招かれたなら、今度は自分が招き返さなければならない、という暗黙のルールがある。ただ招かれてお終いなのではない。招かれたら招き返さないと、それも倍返しをして返礼しないと、大いに面目を失い、仲間からつまはじきにされるのである。だから招きがその身に余りに大きすぎる場合、返礼できないので、辞退するしかないのである。恐れをなして皆、招きを断ったのである。ひとり一人の人生に、神はこのように大きな選び、招きを与えられる、あなたがたと共に歩もうと言われる、そのお招きをどう考えるか。

今日は、敬老の日を覚えて、この教会に連なる方々で、高齢者,特に米寿を迎えられた方々をお祝いし、その齢を寿ぐささやかな会を開催する。神の盛大な晩餐会には及びもつかないが、共にお祝いの膳を囲み、しばらく喜びを分かち合うひと時を持ちたい。決して教会の祝宴は、固辞するような派手さはないので、どうか安心されたい。

「長寿」をどう考えるか。この教会と親しくしているお年寄りの施設では、敬老のお祝い会が、主に百歳以上の方のお祝いとなっていると伝えられた。但し、「命長ければ恥多し」という諺があるように、長生きすればそれで幸せ、と簡単に行かないのも、人生の相である。この諺の出典は、中国古代の伝説の聖王、堯の言葉だと伝えられる。堯王がある国へ出掛けたときのこと。その国の役人が、「長生きし、富み栄え、たくさんの息子さんに恵まれますように」と祈った。しかし、王はそれを辞退して、「子どもが多ければ心配事が多くなるし、お金持ちになれば仕事が多くなってたいへんだ」と答え、続けて「寿(いのち)長ければ則すなわち辱(はじ)多し」と述べたということである。つまり、人間の生きている現実、どのような人生も、すんなり、楽に、簡単にはいかないものだ、というのである。その「辱多い」人生に、主イエスが共に歩もうと言ってくださる、そういう歩みを、キリスト者は日々たどるのである。

最初に紹介した話、広島の千羽鶴の「リ・オリヅル」、これを受け取った新聞記者はどうしたが。送られて来た折り鶴から再生された「特別なノートに正直戸惑った。けい線もない真っさらなページに何が書けるだろう」。私たちは、神から、このようなノートを手渡されて、人生の日々を送るのかもしれない。真っ白なページが、ずっとその後にめくり返して見て、どの頁にもびっしりとあれこれ記されていたなら、それは充実した人生と言えるだろう。まったく何も描かれていない真白な頁ばかり、というのでは寂しいばかりである。しかしそれであっても、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって」という風に、共におられる主イエスへの祈りがひと言でも語られるなら、神は何にもまさって喜んでくださるだろう。そのために御子を地上に送られたのであるから。