祈祷会・聖書の学び 箴言4章

ユダヤの小咄につぎのような話がある。父が子に諭して言う。「人生にとって、最も大切なものは、『憐れみ』と『知恵』なんだよ」。子どもは尋ねる、「『憐れみ』ってどういうこと?」、父は答える「友だちが借金をして返せないで困っているような時、お金を貸してあげることだよ」。さらに子どもが問う、「じゃあ、『知恵』って何?」、すると父は言う。「そんな人を友だちにしないことだよ」。

ユダヤ的思考は、しばしば「現実的」だと評される。困窮する同胞に対して、惜しみない施しや手助けを与えるが、その一方で、極めて冷徹ともいえる計算をしながら、世渡りをして行くのだという。長年、ディアスポラ(離散)の民として、迫害や偏見にさらされながらも、たくましく生き抜いてきた人々の素顔が、この小咄には象徴的に語られているとも言えるだろう。彼らは生きるためのスキルやツールを、絶えず追い求めてきた人々であるが、「知恵」の獲得や習得こそが、その第一のものと見出したのである。但し、その「知恵」は、確かに日常生活に根差したものではあるが、世俗の身過ぎ世過ぎの秘訣を教える”How to”ではなくして、極めて神信仰の本質を穿つものであったのである。

旧約の知恵文学には。ひとつのキーワードが繰り返し語られている。それは「神を畏れることは、知恵のはじめ」という言葉に言い表されているように、健全な信仰のためには、「知恵」が欠くべからざるものであることの表明と共に、「神のことば」は、神殿の祭儀や預言を通じてもたらされるばかりでなく、日常のさまざまな現象の中にも、神は言葉を語られるとの洞察から来るものである。

新約聖書おいて、旧約の文言がしばしば引用されるのが目に付く。初代教会の人々は自分たちの目の前に展開している出来事、その多くは不条理な不可解な出来事を、何とか了解するために、旧約の記述に頼ったのである。やはり古代において旧約は、他に例を見ない知的財産の宝庫であったし、宗教的な権威でもあったのである。神は、出来事を起こされる際に、必ず前もって、何らかの啓示を、この世に与えられ、それは神の啓示の集大成である旧約のどこかに記述されていると考えたのである。

旧約にはいくつもの文書が含まれているが、その中でも、初代教会の人々が、とりわけ注目した書物がいくつかある。ひとつはイザヤ書、ここには「メシア予言」が語られ、キリストが証されている。そしてもう一つが「箴言」なのである。なぜ箴言が好まれたか、その理由は、「日常性」にある。初代教会の最初期、信仰者たちは世の終わりが切迫しているという感覚の中で生きてきた。しかし段々時がたって、終末が遅延するとの認識の中で、やはり日常が問題になるのである。毎日毎日の生活を整えねばならない。身過ぎ世過ぎをしなければならない。キリスト者として、社会生活、家庭生活をどう営んで行くべきなのか、当然、問われることとなる。するとそういう日常生活の指針を与えるような具体的なみ言葉が、やはり求められる。そして長々とした小難しい議論でなく、ノウハウを与えるような簡潔なものが、やはり都合がいい。

今日の個所では、父が子に諭しを与えるという形式で「知恵」が綴られる。二行ずつで語られるゆえに、リズミカルで記憶や反芻しやすく、連想しやすいように工夫されている。これによって「知恵」が伝授され、教えられる場がどこであるのかが、明確に示されている。現代ならば、「教育」はもっぱら「学校」プロパーと見なされるが、それでも家庭教育の重要性が、しばしば言及される通りである。「生きる」という所に焦点を当てて考えるなら、子どもの人生に最も大きな影響を与えるものは、やはりそれぞれの家庭において付与された家族による日常的なふれあいにあるだろう。

子どもはすぐに「何のために」と発問するものだ。それが全く明示されない所では、「モティベーション」が上がらないのである。今日の個所でも、知恵の獲得の理由がこう語られている。3節以下「わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけない独り子であった。父はわたしに教えて言った」。知恵は「いとけないひとり子」であるからこそ、子どもに向けて語られるのであり、そこで語られる知恵の言葉は、先祖から伝えられた古からの教えであり、父もまた受けたものであるという。「先祖伝来の知恵」、現在、この国に失われた最も大きいものがそれであろうし、就中、戦時中の記憶が、伝承されないことは、その戦争の再来を招くことが危惧される。

箴言はそういう作業を、家庭を背景に物語る。教育の力は第一に、家庭にあり、子どもの教育は、家々(個別だが、同じ神の救いの伝承を共有するイスラエルの家)に伝わる知恵の言葉を子どもたちに伝承すること、そこに新しい、今の伝承を付与する営みであった。教育の第一は家庭にあり、そして古からの伝承による、というユダヤ人の方法を、私たちはどう考えるか、今なお問われているであろう。

4章には、ユダヤの日常の風景が垣間見られるが、8~9節は、結婚式の一場面を切り取っている。婚宴に招かれた客が、冷やかしと祝福の言葉と、儀礼、花嫁が花婿の頭に、生花で作った冠をささげる描写が、生き生きと色を添えている。「知恵」はそのように日常の風景をリアルに鮮やかに映し出す技術でもある。

後半は、古代の知恵の書によく見られる形式が用いられている。「悪の道」と「知恵の道」が交互に並べられ語られていく。主イエスの山上でなされた「幸いの教え」は、ルカ福音書がより古い伝承とみなされているが、いくつかの「幸なるかな」の言葉の後に、「禍なるかな」の言葉が連ねられていることも、ユダヤ的な伝統があらわされており興味深い。

また、ここでの「悪」に対する洞察は、当時の一般的、通俗的なものだが、16、17節「背信のパン、不法の酒」という表現は、非常に生々しい。そして「悪」と「眠り」についての洞察は、巧みなものがある。「悪い奴ほどよく眠る」というように。

一方「知恵」の効用についての洞察も興味深い。「知恵を心の奥に隠して置け(知恵をとうとうと他に語るのは、いやらしいものだ)。そうすれば体全体の健やかさを保つであろう。守るならば自分のはらわた(感情と思考の座)。一時の感情に振り回されないことも、知恵の働き」。知恵と健康のつながりが語られているが、確かにそうであろう。このように極めて日常的に私たちの味わう事柄が問題にされているところに、箴言の魅力があるだろう。