「ライオンのようにやって来て、羊のように去って行く」、イギリスの諺であるが、何のことか。3月の気候のことだという。最初は寒暖の差が激しく、時折、春の嵐、暴風雪にも見舞われるが、ついに長閑で柔らかなの気候が訪れる。三月は、教会の暦では受難節のさ中だが、まさにそれに似つかわしい季節かもしれない。コロナに加えて、花粉症が付け加わり、いよいよステイ・ホームの生活も佳境に入る観がある。
家に籠る生活の反映からか、今、「何でもない音」を聴くのがトレンドになっているのだという。皆さんは「何でもない音」と聞くと、どんな音を思い起こすだろうか。たき火のパチパチ、炭酸水のシュワシュワ、包丁のトントン、こういう「何でもない音」がネット上で人気なのだという。ある東京のラジオ局の番組で、たき火の音やチャーハンを炒める音だけを、1時間以上流し続ける特番を放送し、話題を呼んだ。ノルウェーで以前、まきが燃えているだけの映像を、何時間も流したテレビ番組が高視聴率だったことで企画されたらしい。薪のはぜる音などが延々と続くたき火を聴くと、落ち着く気持ちは分からないでもない。音楽療法が最近話題に上るが、何の変哲もない音の数々が、聴く人に心地よさをもたらしたり、ただの音で癒やされる人は少なくないようだ。
演劇の小道具のひとつとして、効果音のCDがある。山や海、町や村、都会や田舎、駅病院、空港、工場、学校等のさまざまな場所の音だけが録音されている。芝居の情景の背景に使われるが、ただそのまま耳で聴いても、非常に面白くて、やめられなくなる。
さて「教会の何でもない音」というと何が上げられるだろうか。「何でもない」とは必要がない、いらない、ということではない。あってあたりまえなのだが、無くなると困る、というのが、「何でもない」ということである。賛美、聖書朗読、祈りの言葉を始めとして、その他もろもろ、集まる皆さんのおしゃべりの声、子どもの笑い声、泣き声、そのひとつ一つが「何でもない」それでいて「かけがえのない」音であることが、今、しみじみと感じられる。
そういう様々な音の中でも、最も「何でもない」音がある。賛美は大体、毎週異なる讃美歌を歌う。聖書もそうだ。毎週の日課があり、祈りも礼拝毎に異なる。しかしいつでも同じ言葉で、いつものように繰り返される音、言葉がある。それは何か、「信仰告白」、この教会では「使徒信条」が礼拝毎に繰り返され、いつものように唱和される。この教会だけではなく、長い教会の歴史を通じてそうであった。教会の日曜ごとの、当たり前の音、言葉として「信仰告白」は口にされて来たのである。
今日の聖書個所は、「ペトロの信仰告白」の場面である。福音書のここに至るまで、人間による信仰告白は全く語られてこなかった。却って悪魔や悪霊の口によって、ナザレのイエスを「神の子」「神の聖者」という信仰の言葉が口にされて来たのである。「悪霊や悪魔の口によって」とは、おそらく健康な時、さほど問題を抱えていない時には、このイエスという方のほんとうの所が見えてこないのかもしれない。病気や、困難やどうにもできない課題、自分の十字架を負わされる時に、ようやくこの方の真実が見えるようになる、ということかもしれない。
ペトロの信仰告白は、主イエスの言葉に促されてなされたものである。ここにその最も肝心な点がある。自分の努力や精進で摘みとった確信や信念、あるいは真理探究や研鑽の結果、主イエスを信じる信仰の言葉、信仰告白が生まれて来るのではない、ということである。主イエスからの呼びかけによって、その促しに答えて、引き出されるものである。
主イエスは訊ねられる「人々は、人の子(私)を何者だと言っているか」。弟子たちは答える「洗礼者ヨハネ、エリヤ」、これを受けて、さらに主は訊ねられる「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」。ここに信仰告白を行うことのすべてが言い尽くされているだろう。「それでは、あなたは、何と言うのか」。世の人はいろいろ言うであろう、またあなたの隣にいる人も、さまざまに語るだろう。それはどうでもよい、あなた自らはどう呼ぶのか。あなたの答えは、どうなのか。たとえ拙くとも、未熟でも、風変わりでも、人から何と言われようとも、あなたはどう言い表すのか、と主は訊ねられる。だからこそ「主イエスとわたし」の、わたしだけの繋がりが生まれるのである。信仰において、主イエスとわたしの他、余人の入る余地はない。
こう問われてペトロが答える「あなたこそメシア(キリスト)、生ける神の子」。おそらくこの信仰告白は、最も古い教会の信仰の言葉であろう。「キリスト、神の子、インマヌエル(わたしたちと共にある方)」、最初の教会の信仰の言葉が、こんなにもシンプルで単純明快であったことを、是非覚えたい。そもそも神の真実は単純で明快なものだ。おどろおどろしく、あるいは仰々しく飾り付けられるものは、大抵、人間の作為に満ちている。
これに対して、主イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と応答される。「この岩の上に」とは何を指しているのかが問題となるだろう。教会はこの語が何を指しているかで、大議論を重ねてきたのである。ペトロは最初の弟子シモンに付けられた、主イエスご自身によるあだ名である。この名は「ペトルス(岩)」という言葉から来ている。おそらく「岩ちゃん」という程の意味だろう。
すると「岩の上に」とは「ペトロの上に教会が建てられる」ということか。カトリック教会はそう理解して来た。他方、プロテスタント教会は、「岩の上」を「信仰告白の上に」と理解した。日本基督教団の教会でも、信仰告白の持つ重さがしばしば議論されている。しかし、これは「ペトロ」か「信仰告白」か、というどちらが正しい、という問題なのか。
「岩の上の教会」とマタイは語るが、この言葉のイメージはどこから来ているか。実にエルサレム神殿は、岩の上に建てられた神の家と呼ばれていた。丁度、マタイがこの福音書を書いたころ、ユダヤ戦争が起こり、ローマ軍によって神殿はことごとく破壊され、その基底部までも覆された。それ以後、神殿は再建されていない。後の時代に神殿の基礎部分の岩の上から、イスラム教の開祖モハメッドが昇天したと伝えられ、現在はそこに「岩のドーム」という名の「モスク」が建てられている。
エルサレムの岩の上に神殿が建てられたことについて、いくつかの伝説が伝えられている。そのひとつがこういう物語である。昔々、この地に二人の兄弟が暮らしていた。兄は結婚し家庭を持ち、弟はひとりで暮らしていた。二人はそれぞれの畑を耕し、麦の種を蒔き、収穫し、つつましく暮らしていた。その年も豊かな実りを得たが、弟はこう考えた。自分は独り暮らしだから、それほど沢山の収穫が必要ではない。兄のところは大勢の家族を養うのに、きつい思いをしているだろう。そこで夜中に、ひそかに自分の麦の束をもって、兄の納屋に運んだ。他方、兄の方も、弟は独り身で寂しい思いをしているだろう。少しでも励ましてやりたい、ということで、やはり麦の束をもって、ひそかに弟の納屋に投げ込んだのである。朝、起きてみると麦の束がまったく減っていない。不思議に思いつつも、その夜もまた、二人とも自分の麦の束を、相手の納屋に運んだ。それが数日続き、ある晩、エルサレムの岩の上で、二人は鉢合わせし、それぞれ互いにしていたことを知って、抱き合って泣いたという。これを伝え聞いたソロモンは、この場所に神殿を建てることを決めたというのである。
マタイはこの伝説を知っていたと思う。そして主イエスのなされたみわざ、十字架への道を歩まれたことこそ、岩の上の出来事だと了解したのではないか。「キリスト、神の子、インマヌエル(わたしたちと共にある方)」、最初の教会の信仰の言葉の背後には、主イエスの十字架の苦しみ、痛み、そこに神の赦しの出来事が張り付いている。この岩の上にしか、教会は立ちえない。
「これはいつかあったこと/これはいつかあること/だからよく記憶すること/だから繰り返し記憶すること/このさき/わたしたちが生きのびるために」。阪神大震災で被災した詩人、安水稔和さんの詩の一編を思い返す。毎週、毎週、礼拝の度に、私たちは信仰の告白を行いつつ、人生の道を歩んで行く。それはこの詩が歌う通りの心である。