祈祷会・聖書の学び サムエル記下12章1~15節

イソップ(アイソーポン)の寓話に、『ねずみの相談』と題される物語がある。ネズミたちは、いつも猫に酷い目に遭わされていた。ネズミたちはこの現状を何とかしようと集まって相談することにした。すると、その中の一匹が、「猫が来たらすぐわかる様に、猫の首に鈴を付けよう!」と提案する。みんなは名案だと大喜びした。しかし別のネズミが一言、

「でも誰が猫の首に鈴を付けるのさ」とみんなに問うと、誰もその役を買って出るネズミは居なかった。教訓:いくら素晴らしい案でも、実行できなければ絵に描いた餅であり、無意味である。

よく知られた紀元前の物語だが、今もそのまま真理として通用することに、やりきれない思いにさせられる。「世の中は諸事御(しょじご)尤(もっとも)ありがたい御前御機嫌(ごぜんごきげん)さておそれいる」。これは、江戸時代の役人のごますりやご機嫌取りの処世を風刺した狂歌であるが、世渡りの秘訣だとしても、そこに生きている生身の人間の魂の問題は、どうなるのか。処世の前には、そんなものは問題にもならないのであろうか。

サムエル記下には、全イスラエルの王となったダビデの人生の、様々な「明暗」が記されている。通常、古代の文学は、王を「神のかたち」、すなわち現人神として栄光の姿を描く物語ばかりである。しかし聖書の文学は、ダビデというイスラエル史上、たぐいまれな才能を持った賢王の、救いようのない愚かさをも描き出すところに、その独自性が表されている。

「小人閑居して不善を為す」という諺があるが、「小人」ばかりでなく「大人」もまた人間である限り、同じことである。周辺の国々との幾多の戦乱に明け暮れるダビデもまた、ストレスにより疲弊し、心の隙が生じたのであろう。またイスラエルの絶対的な権力者として、おごり高ぶりも生じたのであろう。前章においてこの賢王は、誠に愚かな事件を仕出かしてしまう。世に言うところの「バト・シェバ」事件である。人妻バト・シェバを奪い、忠実な軍人であるその夫ウリヤを、戦場で見殺しにしたのである。それも極めて緻密で残忍な策略を巡らしての上である。密かに腹心の部下である将軍のヨアブに命じ、戦いのさ中、ウリヤ一人を残して、味方の兵隊たち全員を、一斉に退却させるという作戦である。一本気で頑固な武士であるウリヤは、たとえ孤立しても後には引かぬだろう、との目論見である。まんまとダビデの思い通りに、事は運んだかに見えた。全イスラエルに君臨する王なのである。

ところが、ダビデの許に預言者ナタンがやって来る。先王サウルは、王としての油注ぎを受けた時、激しく神の霊が彼の上に臨み、預言者となったと伝えられる。そして彼の周りには預言者団が付き従い、この王へのサポートをしたものと思われる。王政開始以前にも、モーセにしても、あるいは士師にしても、リーダーの傍には、常に預言者の姿が見え隠れしている。イスラエルの政治には、預言者の存在が不可欠なのである。なぜなら、イスラエルにおいて、真の王は、天上にいますヤーウェの他なく、その神の言葉なしには、イスラエルたり得ないからである。

ダビデ自身も、預言者のひとりであったが、この王のすぐ側にも、預言者が仕えていたのである。ナタンは宮廷の預言者のひとりであったろうが、ダビデの政治に著しい影響を与えた人物だと思われる。この預言者は、バト・シェバの相談役、あるいは知恵袋として、その子ソロモンをダビデの後継者にするために、盛んに動き回っている。宮廷の常として、後継者争いは当然至極であり、バト・シェバの置かれていた立場はかなり脆弱で、危ういものだったろうと思われる。特にダビデの長子アブサロムと彼の同調者からの攻撃は、随分激しかった。ダビデ自身も、この長子から生命を狙われ、仕方なく逃亡生活を送ることを余儀なくさせられているのである。但し、ナタンは単にダビデ政権の陰に潜んで、傀儡を操るように力を奮う奸計家では決してなく、生粋のイスラエルの預言者であった。それが今日の聖書個所から伝わってくるのである。

「バト・シェバ事件」のさ中、ナタンはダビデの許を訪れ、世間話のようにして、王に語りかける。これは主イエスの譬話をも彷彿とさせる、見事な物語である。イスラエルの預言者の伝統に、こうした「物語」の語り部として、あるいは「物語」の創作者として、文芸、文学的な側面が色濃くあったことは、と特筆されるべきである。主イエスもまた、当時の民衆から、預言者のひとりとみなされたのは、その見事な譬物語作者としての力量にあったのではないか。

預言者は、この偉大な全イスラエルの王の罪を、ひとつの譬話によって告発するのである。罪を告げるのも、相手は人間であるから、一筋縄ではいかない。ただ激しく罪を論い、断罪するだけでは、殊は済まない。罪ある相手を責めなじったところで、結果は元には戻らないのである。謝罪も表面を取り繕うだけのものならば、却って和解を遠ざける。要は、誰かから責められて、罪を認めたとしても、心からその罪を悔い、嘆くことがなければ、何も変わらずただ虚しいのである。聖書が「悔い改め」を強調するのは、そういう訳である。そして「悔い改め」は、本来、神のみ前にのみなされるものであろう。人の前ならば、己の罪を隠し、身を隠し、誤魔化し、責任転嫁し、挙げ句の果ては、「記憶にございません」と逃げるのである。実に神のみ前で、「国会の答弁」が許されようか。

ナタンの語る物語に、ダビデは強く反応する。「ある貧しい人が、娘のように丹精込めて育んだ子羊を、富めるものが情け容赦なく奪い取る」物話である。ダビデはこれに激しく怒り、不正に憤るのである。まさに賢王にふさわしい公正な認識力、判断力である。しかし、ただひとつ全く分かっていなかったことがある。ダビデ自身が、この物語の「富める者」であり、「貧しい者の子羊を奪う」残忍な人間であるということが。ナタンは静かに告げる「その男はあなただ」。

ダビデはこの事件によって、終生苦しむことになる。家族の不和、崩壊、醜い後継者争い、それを己の身に負って、生きなければならなかった。しかし、その中にあっても、彼は神から見捨てられることも、神の言葉を聞けなくなることもなかったのである。彼の罪告発する預言者に却って支えられ、悔い改めの道を歩むのである。