「一人も失わないで」ヨハネによる福音書6章34~40節

皆さんは、今朝、何を食べられただろうか。「あなたの食べたものを言ってみたまえ、私はあなたがどんな人かを言い当ててあげよう」とすごいことを言う美食家(ブリア・サヴァラン)もいる。彼はその著書『美味礼賛』の中で、「人生に必要なこと。それは、よく食べ、よく愛し合うこと」だと語るが、なるほど、いずこの地でも共通する真理なのかもしれない。

最近は、巷間で「昆虫食」について活発に議論が交わされているが、これからの未来の貴重なたんぱく源になりうるとも主張され、すでに商品化も図られており、これに強く批判、抵抗する人々もいる。皆さんはどうか。吉祥寺では自動販売器で昆虫食を求めることができるという。題して「コオロギ食べ比べ!?」 「昆虫ロースト 広島こおろぎ大トロ 」「昆虫煮干し 京都こおろぎ 」「福島・ソース味 二本松こおろぎ 」「昆虫煮干し 埼玉嵐山こおろぎ・ピリ辛麻辣味(落花生入り)」、これは話題拡散の意図なのだろうが。

詩人の石垣りん氏の作品、代表作とも言える詩に『くらし』という題の作品がある。「食わずには生きてゆけない。メシを/野菜を/肉を/空気を/光を/水を/親を/きょうだいを/師を/金もこころも/食わずには生きてこれなかった。ふくれた腹をかかえ/口をぬぐえば/台所に散らばっている/にんじんのしっぽ/鳥の骨/父のはらわた/四十の日暮れ/私の目にはじめてあふれる獣の涙」。この詩人らしいまことに直截な、芯を穿つようなまっすぐなことばで、「生きる」ことの本質が切り取られているかのようだ。激しく力があり、しかも繊細である。人間は、有史以来、食べられるものはなんでもかんでも食べて来たし、それで生き延びて来たことも間違いはないだろう。食べ物のえり好みなど、今の、この国の、この時代だけの事柄であろう。

詩人は、食べる行為の「あさましさ」をも容赦なく開示しようとする。「生きるために」貪り食べるのは「食物」ばかりでなく、「天然自然のすべて」、さらに親兄弟はじめとする「他の人間」を情け容赦なく貪って生きて行くという、人間の営みの現実の姿を象徴的に、隠喩として告げるのである。そしてすべて食べたものが、血となり肉となり、何かの役に立ち、自分の命の中に息づく、ということがあるにしても、そうならないで「ゴミ」として捨てられてしまうものも多い。そこに「父のはらわた」、という言葉がさりげなく置かれると、却ってぎょっとさせられる。なぜ「父のはらわた」なのか。

今日の聖書個所はヨハネ福音書、「主イエスは生命のパン」と語られる部分である。前回までルカ福音書の復活の物語を読んで来たが、主イエスはご自身の復活のリアルを、弟子たちの目の前で、パンを割き、魚を食べて見せる、という具合に、食事を通して明らかにされた。小難しい理論や理屈を展開して、弟子たちを納得させたのではなく、直に食べることを通して、生きており、共にいることを示されたのである。

これは最初の教会が、何をしていたのか、その実態を喩えによって示そうとしているのだろう。今の世ならば、余所に食事ができる場所はいくらでもあるだろう。しかし、イエスの時代のユダヤは、食堂やレストランの類は、皆無と言ってよい。食べる場所はほぼ家庭に限定される。例外は、祭りの日や婚礼の晴れの日の振る舞いにあずかることだが、荘滅多矢鱈にない機会である。もう一つ、共同体の会食があった。同じ地域内で、あるいは同じ仕事の仲間内で、パトロンや親方、町や村の顔役の所に呼び集められて、食物が供せられる儀礼的な食事である。しかしこれは社会の付き合いの一環であり、多くの場合、利害が絡んでいるから、気を抜けないし、作法や序列がきちんと決まっていた。そういう飯を殊更に食べたいか。きっとあまり美味しくなかったろうと思う。

そういう家庭の食事、世の中の食事と、教会の食事はどこが違うのか、やはり議論になったのだろう。家庭の食事のようでいて、いろいろごちゃまぜの人々と共に食事をとることの意味である。もちろんその源は、主イエスが中心となって、集められ招かれた人々が、一同皆で食事をする、この章の初めに記される「五千人の給食」のような食事が、その元にあったのであるが。しかし、今、教会において、主イエスは目に見えない存在なのである。主イエスはどこにおられるのか、どのようにおられるのか、得体が知れないのでは、「亡霊・幽霊」と同じではないか。

そこでこのみ言葉が語られたのである。35節「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』」。教会において、主は、いのちのパンとして、目の前にある。礼拝の度毎に、主が十字架でその身体が切り裂かれ、血を流されたように、パンを割いて、共に分かち、共に食べ、ぶどう酒をひとつの盃から飲むのである、と。

手作りパン屋さんに行くと、いろいろな形のパンが売られている。動物の顔や姿を象った楽しいパンもある。子どもが欲しがる、という商売上の意図だろうが、遊び心の発露でもあろう。「たい焼き」とか傑作である。別に魚の鯛を焼いているのではないが、「フェイクだ」と文句を言っているは見たことがない。お腹にあんこが詰まった焼いたお菓子である。頭から食べるか尻尾から食べるか、はたまたお腹から食べるかで、その人それぞれの性格も反映される。人間はどこかに遊びを仕掛けてほっとしたいのである。遊びがなければ、かちこちかっちんで、どうにも気が抜けずやりきれない。人間の使う機械でも道具でも、多くのものには、「遊び」があるものだ。最初の教会でも、幾つも遊びを取り入れていたようだ。言葉にして説明すれば、非常に難解になる考え方を、魚、羊、鳩等、形にして表現した。今でいうアニメキャラみたいなものである。さらに一番大切な聖餐のパンでもまた、遊んだ節がある。それは何か。パンを人型に焼いて、主イエスの身体に見立てたのである。この人型のパンを割けば、それはリアルな感覚ではあろうが、ちょとやりすぎかもしれない。さすがに現代にまでは、踏襲されてはいない。

最初に詩人の作品を紹介した。「台所に散らばっている/にんじんのしっぽ/鳥の骨/父のはらわた」と詠われる。なぜ「はらわたなのか」とお尋ねした。そもそも「はらわた」は、聖書の人々にとって「生命の座」即ち、生命を司る最も大切な場所であり、人の本音、本心の宿る所であり、「魂」の所在でもある。神はこの「はらわたに手を伸ばされ、ひとり一人の人間を探られる、即ち、そこでこそ人と出会われる、というのである。主イエスにおいてはさらに、十字架において、その脇腹を槍で切り裂かれ、私たちの目の前に、あらわにされたのである。そのように十字架で主イエスは、はらわたを切り裂かれて、捨てられたのである。そしてこれでしか私の罪は赦され、生かされる術はなかった。主イエスのはらわたによって、わたしたちが生きることができるように生命が与えられた。「わたしの目にはじめてあふれる獣の涙」と詩人は詠う。親のはらわたを食いちぎって、人は成長し、大人になり、自分もまた親となって行くだろう。いつか、そういう生命の真実を知って、情けのない獣のような私でも、はらはらと涙を流し、感謝する時が来るだろう。「孝行のしたい時には、親はなし」今や「孝行がしたくなくても、親がいる」などと皮肉交じりの世の中であるが。それでも、人間、獣の目に涙、なのだろう。

昔、あるキリスト者の小説家(椎名麟三)が、「復活後のキリストは、食べてばかりいる」と評したことがあった。なるほど、先週、夕礼拝で、「復活の主イエスを信じない弟子たちに、魚を食べて見せたのはなぜなのか」、という問いが話題となった。「食は生命を直結している」というのは、直接過ぎて余りに味気ない。「魚は、庶民の日常の食卓の献立だった。つまりいつものところに主イエスはやって来られる」。ある方が「食べるその様子、振る舞いに、もっともその人らしさが現れるから」と言われた。いろいろ想像がめぐらされて楽しい。

主イエスが弟子たちを前に、食べる姿を披露して、掛け値なしのご自身であることを示された。そして今度は「わたしがいのちのパンである」と言われる。いのちのパンである主イエスをいただくということは、食べる人それぞれが、その食べる姿を人と神の前に顕わにすることである。聖餐の度に、私たちは手渡されたパンと盃を、恵みとしてありがたく受け取る訳であるが、受け取ることは、ただ一方的に、受けるだけの行為ではなく、私もまた食べることで応答するのである。人間的の流儀ならば、食べ方が汚い、とかマナーに外れているとか、いろいろ批判する向きもあるだろう。だが、そう堅いことは言わないで、皆が共に、心を開いて楽しく食べることができたら、これにまさるマナーはないだろう。「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで」と主は言われる。「一人を失うこと」は神のみこころではないというのである。「ひとりはみんなのために」と強制される世の中で、どこに「ひとりのために」が表されるのか。人は一人を追い出す。しかし主は、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われる。ご自分をいのちのパンとして差し出される、見えないところに働かれる、よみがえりの主がおられるのである。