祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書16章1~12節

パン作りに欠かせないものは、もちろん小麦粉であるが、ただ粉を練って焼けばパンができるかと言えば、そうではない。それだとただの硬く、噛み切れない板みたいなものが出来上がる。柔らかでふんわりおいしいパンは、イースト(パン酵母)のおかげで作ることができる。このパン酵母が、おいしそうなパンの風味を形づくっている訳である。今では、店に行けば手軽な既成のイーストを買うことができ、それを小麦粉に混ぜて練れば、素人でもそれなりにパンを焼くことはできる。それではパン作りの源、イースト(聖書では「パン種」と呼んでいる)はどうやって作るのか。町のパン屋さんで、「自家製酵母」とか「天然酵母」を売りにしているパン屋さんがある。聖書の時代には、ドライイーストなるものはまだないから、やはり家庭で「パンだね」を作る必要があった。一体何を用いて、どのように作るのか。

パンは今から約6000年前、古代エジプトで生まれたと言われている。最初は小麦をお粥に、小麦団子や煎餅にして食べていたようだが、紀元前4000年頃には石臼で小麦や大麦を細かく挽いて粉にし、煎餅やビールを作るようになった。そして程なくそのビール発酵種を小麦粉に混ぜて、「ガレット」と呼ばれる平焼きパンが焼かれるようになる。これが世界最古のいわゆる「パン」だと言われている。パンを焼く方法も、最初は砂漠の強い太陽熱を利用していたが、次第に色々なパン焼き窯が工夫された。

ナイル川流域の穀倉地帯に住むエジプト人は、「パンを食べる人」と呼ばれたほどパンを好んだが、その製法を国外に伝えることを禁じていた。それが国外に伝わったのは、エジプトに奴隷として使役されていたヘブライ人によるものと言われている。ヘブライ人は窯に工夫を加え、半連続的に大量にパンを製造する方法を開発したという。これが直焼きパンの製法の始まりなのだが、出エジプトの後、ヘブライ人はこうした技術をも携えて約束の地に向かったことになる。

なぜヘブライ人がパン作りに巧みだったのか。パレスチナはぶどうを栽培するのに非常に適していた。ヘブライ人は、エジプトで奴隷だった時に、ぶどうを栽培しワインを作る仕事をしていたらしい。おそらくエジプトに寄留する以前に、カナンの地でぶどう栽培、そしてワイン製造のノウハウをしっかりと培っていたからであろう。そういう生活経験から、ぶどうからよいパン種を作ることができるのを、自ずと知っていたのだろう。ぶどうの皮にはたくさんの酵母菌が付着している。干しぶどうにして、それを水につけてしばらくおくと、甕の底に滓がたまる、これがパン種となるのである。現代でも「自家製酵母」と銘打ってパンを作るパン屋さんは、ヘブライ人と同じように、干しぶどうを使ってイーストを作っている人が多いと聞く。

さて今日の聖書個所は、「パン種」の話である。主イエスは、6節に「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と弟子たちに注意喚起されている。主イエスの時代、人々に対して宗教的な影響を左右する二大派閥が、この「ファリサイ」と「サドカイ」である。「サドカイ」は古くダビデ王国時代、祭司ザドクを先祖に戴く一族とされ、エルサレム神殿を統括する大祭司はじめ祭司階級の貴族グループである。彼らは「最高法院(サンヒドリン)」を組織し、神殿体制によって国を牛耳っていた。他方「ファリサイ」は、「分離された者」という意味で、第二神殿以降、ユダヤ教は強く律法主義的色彩を持つようになるが、その時代に敬虔派として、厳格に律法を守って生活するグループを形成した。彼らは民衆に律法を説き、それに従って生活するように教え、民衆の教師「律法学者(ラビ)」として活動するようになった。この二つのグループが、当時のユダヤ社会に大きな影響力を持っていた体制派であった。「体制」は、おのずと保守的であり、守旧的な価値観と既得権に拘るから、大衆が迎合し熱狂するような新奇なムーヴメントを嫌い、この動きに常に警戒怠りない。

バブテスマのヨハネの活動やイエスの活動(「神の国運動」と名付けることもできる)は、彼らにとっては、非常に警戒すべき反体制的な動きであって、自分たちの立場を脅かす危険があると判断すれば、速やかに禍根の根を断つように対処するのである。それが主イエスの十字架の政治的な背景である。福音書がとりわけこの二つのグループに対して批判的なのは、そういう事情によるものである。

ここで主イエスは、単に「ファリサイ派」「サドカイ派」を非難し、批判しているのではないことに注目すべきだろう。もちろんある政党が汚職と利権に満ちていたとしても、必ずしもそこに属するすべての人間が、汚濁にまみれている訳でもないだろう。そうとは言え、無関係だから責任はない、とも言えないだろう。「関係」というものは、すこぶる微妙な要素を秘めているものである。そういう事情を主イエスはよくご存じなのであり、だからこそ「パン種」という言い方をされるのである。

パンを香ばしく、おいしく、ふっくらさせる源が「パン種」である。麦の成分であるグルテンに働いて、力を発揮する。やはり人間には、力を引き出す源が必要なのである。人をやる気にさせる一番よい方法は何か、アメリカのある大学教授が、工場で働く労働者に実験を行った。従業員は4日働き4日休む勤務形態。仕事の日は1日12時間も働く。このため休日明けの出勤1日目はモチベーションが上がらない。そこで教授は、労働者の意欲を高めるには、何が良いかいろいろ試してみたのである。休み明け日に「何もなし」「現金」「ピザチケット」「上司の褒め言葉」の4条件にして実験した。その結果、何もなしは成果ゼロ。残り3条件は全て成果が上がり、現金では約5%、ピザと褒め言葉だと約7%良くなったという。驚いたのはご褒美のない2日目の結果。現金は生産性が15%近くも低下。ピザは5%減、褒め言葉は逆に5%増えた。現金だと損得のみで判断するが、ピザや褒め言葉では善意など情緒的な価値が生まれ、働く動機付けになるらしい(「『幸せ』をつかむ戦略」日経BP)

人間は、損得、善悪、好嫌、有利不利だけで動くわけではない。神はそういうものを越えて人間に働きかけ、人間はそれを己が力の源として生きてゆく。ただ「損得、好き嫌い」のみの源では、その人生は小さく委縮して、広々とした大らかな生き方はできないであろう。人は必ずその自分の源とどこかに表しながら生きてゆく。それを真に生きる時の問題にして歩んで行くことが、肝要ではないか。要は「自分のパン種」が問われている。