「内輪で争えば」マタイによる福音書12章22~32節

皆さんは、どなたかをお見舞いに行くときに、何を持って行くだろうか。昔は「果物籠」(水菓子)、「花束」等がお決まりの品だったが、最近は、病院の方から拒絶されることが多い。若い頃に、先輩の牧師から、「何を持っていくか」そう問われたことがある。「牧師だからと言って、聖書は持って行かない方がいい。読みなさい、と強制されている気持になる」。では何がいいか、「『サザエさん』、が一番いい」と言われた。成程と感じた。

小説家の高見順が亡くなる少し前、日記にこんなことを書いている。体が衰弱して本を読む気力がなくなり、音楽ならば、と思って聞いてみたが、やはり駄目だった。音は聞こえるが、音楽としては聞こえなかったという。音楽評論家、遠山一行氏がこう説明している。それは聴覚の衰えではない。聴覚が受け取ったものを、自分の内部で意味ある言葉として再構成する精神の能力が衰退したのである、と。

「音」としては聴こえるが、「意味ある言葉」として再構成する能力が衰退する、これは本来、病気だからとか、年を取ったからとか、忙しすぎるから、という問題ではないだろう。主イエスは「何を聞いているかに、注意しなさい」と言われたが、他人の身にならずに、自分の聞きたいことばかりを聞こうとしても、意味ある言葉は聞けない。あるいはそもそも端から聞こうとしない、という一番の問題があるのかもしれない

福音書は、どれも必ず、その背後に教会がある。作家がひとり自分の部屋に籠って、アイデアをひねり出して、創作をしているのではない。教会もまた様々な人間が集まる場所「エクレシア」であったから、様々に問題を抱えるのである。まったく問題がない、ことの方がよっぽど問題であるし、問題があるから問題だ、という訳ではない。どこでもかしこでも、人間のいる所には問題が生じる。その問題を無視するのではなく、何とか解決しようとしたり、解決できないまでも、せめて折り合いや妥協や一致を見出していこう、というところに人間の知恵がある。つまり投げ出してしまわない、そこに人間の価値があると言っても良い。

福音書を形づくった教会も、いくつもの具体的な問題に悩まされたのである。そしてその問題をどうにかするために、手掛かりになるのは、ひとつは旧約聖書の言葉であった。しかしそれ以上に目を向け、耳を傾け、集中したのは、当然のことながら主イエスのみ言葉、みわざ、多くの使徒たちによって伝えられた伝承だったのである。だから福音書の物語は、単に主イエスが生きて活動されている時には、こんなことがありましたよ、あんなことがありましたよ、という思い出話が語られているのではなくて、そういう記事の中に、教会で起こっていた問題、多くは喫緊の深刻な事柄が潜み、読み込まれているのである。

今日の聖書個所「ベルゼブル問答」と題されているが、主イエスの癒し、病人から悪霊を追い出すみわざを見て、あまりに主イエスの働きが見事で、悪霊どもが唯々諾々とその命令に従うので、ファリサイ派の人々が妬んでケチをつけた、という話である。この時代は、人間関係はすべてパトロン(庇護者)とクライアント(従属者)、つまり親分と子分という主従関係から成り立っていた。農民、大工、商人、物乞い、その他もろもろの業界が親分子分の関係で動いていたのである。だから神様もまたそのようであり、悪霊にも「ベルゼブル」つまり悪霊の頭があり、若頭どもや、下っ端の構成員がいる、と信じられたのである。そして子分は親分から絶対の服従を求められる。主イエスの前に、悪霊が素直に大人しく言うことをよく聞くので、「奴は悪霊の親玉ではないのか」とやっかみで言いがかりをつけたということである。

ここにも初代教会の実際の有様が、暗にほのめかされている。この時代、ヘレニズム世界ではたくさんの神々が祀られており、住民は神々の縁日には、怠りなく犠牲を奉げ、供物を欠かさなかった。なぜか、神々の祟りを恐れたからである。他方、教会に集う人々は、神々への供犠や祀りにほとんど頓着しなかった。主イエスが悪霊を恐れなかったことが、キリスト者に大きな安心を与えていたのである。

ところが「悪霊」の問題よりも、もっと厄介な問題に、教会は悩んでいたのである。人間が群れる所では、必ず起こる事柄である。今日の個所に、同じ用語、同じ意味の言葉が何度も繰り返される。どんな言葉か。それは「内輪で争う」「内輪もめ」という言葉で言い表されている。つまり教会に「内輪もめ」がある、というのである。本当か、パウロの記したコリントの信徒への手紙を読めば、一目瞭然である。教会の人々が派閥を作り、「わたしはパウロに、いやアポロに、いやケファに、キリストにつく」と言い合っている。さらに「主の晩餐」も共に分かち合えない程になっていることが伝えられている。残念なことにマタイの教会もまた、「内輪もめ」が起こっていたらしいのである。

どうして人間は内輪もめするのか。この国の昔々の偉い方は、「和をもって尊しとなす」と教えたが、それを「憲法」という形にしたのも、人間は「内輪もめ」するからなのだ。もし皆が、いつも仲良くいられるなら、「法」に記す必要はない。仲良くいられないから、決まりを作る必要が出て来る。もう一度尋ねる、どうして人間は「内輪もめ」するのか。「利害や利権」が絡むから、さもありなん。但し、初代教会には、利益供与など無縁なほど、金がなかった。では「権力志向」、さもありなん。しかしまだ組織として全く未熟で、役員、つまりお世話係(ディアコン)があるくらい。

最も妥当な答えは、「内輪もめ」の原因は、真面目だったから、というのが一番ふさわしい説明だろう。真面目だとどうして「内輪で争う」ことになるのか。それは他人の過ちや欠点や落ち度やいい加減さを赦せないからである。なぜ赦せないか、それは自分が一生懸命やっているという自負、できない人に対する軽蔑、ずるさへの嫌悪、そしてそういう人間のだめさの一切が、教会をゆるがし破壊する、と思い込んでしまうからである。

マタイはこの個所で、主イエスのきわめて大胆な言葉を引用する。「だから言っておく、人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」。おそらくこのみ言葉は、主イエスの語った言葉通り、そのままの伝承であろう。神は人間がどれほど多くの罪を犯しても、ひどい的外れなことをしでかしても、あるいは思い上がって傲慢となって、自分を神のように思い込んでも、赦されるのだと言われる。皆さんは、この言葉の前にたじろがないか。そんな全てが赦されるのであれば、この世の秩序や正義や安心はどうなるのか。それでは社会が成り立たないではないか、と言われるだろうか。しかし、これを語られた私たちの主は、この言葉通り、私たちの赦しのために、十字架に付けられ血を流された。ここから目を背ける時に、人間ばかりに目が行き、自分ばかり、他人ばかりが気になり、そのあらを捜すようになり、私たちは「内輪もめ」に陥るであろう。そして主イエスの赦しに目を向けようとしない者は、赦しを信じない者は、赦されることもなくなるだろう。その人は自分自身さえも、赦すことができないのだから。だから「聖霊を冒涜する者」、つまり今、見えない姿で働かれている主イエスの、赦しのみわざを信じない者は、赦されることがない。

こういう話を聞いた。還暦を迎えた病院の院長先生が、お祝いの宴席で余興に駆り出されたという。目隠しをして、握手した5人の女性の中から、自分の奥さんを当てるゲームである。「この人です」と手を取って目隠しを外すと、苦労をともにしてきた妻の顔があった。さすが、と会場は沸いたが、院長の思いは複雑だった。「私は一番荒れている手を選んだのである」(上野恭一「妻の手」)。

なぜこの院長先生は、「一番荒れている手」を選んだのか。想像するしかないが、自分自身がいろいろな人に助けられ、生かされていること、とりわけ最も身近な人に、最も苦労を掛けているという思いがあったからこそ、そのような選択になったのだろう。それ以上に、お医者さん自身、無数の荒れたその手に、癒されて来たのである。「荒れた手に癒される」、主イエスの手もまた、きれいな手であったはずはない。何せ手仕事をする大工の掌であり、十字架に釘付けられた掌である。その荒れ果てた手、その傷によって、私たちは赦され、癒されるのである。