「取って、食べた」ルカによる福音書24章36節~43節

「スーパーからメカブが消えた」。夕食の買い物から帰るなり、家内が言い訳がましく話す。例によって、テレビで健康食材として紹介されたため、主婦たちが飛びついたらしい。毎週録画をしている健康番組を調べると、二つの局で旬のメカブを取り上げていた。

根強いサバ缶ブームは言うに及ばず、こんにゃく、エノキタケ、ブロッコリー、ひき割り納豆など、紹介されるたびに品薄になる食品には事欠かない。定番の食品にしている家庭は、ときに面食らうはめになる。皆さんはどうか。買いに走るか。
この国は、かつての「ただ食べる」ことから「健康のために食べる」にシフトしている。数十年前の「食べ物があるだけで幸せ」という時代からすると隔世の感がする。「何を食べようかと思い煩うな」、という主イエスのみ言葉は、食べられるか食べられないかの、かつかつの現実に生きている人の言葉である。決してどれが健康に良いか、などと食材を選ぶ悩みを言うものではない。しかし、主イエスは食事を大切にされた。食事の場面が、これほど繰り返し描かれる古代文学は、他にない。

今日の聖書個所は、エマオの物語に続く、復活の逸話である。弟子たちが集まっているところに、主イエスが姿を見せる、という記事は、他の福音書も記している。なぜ大勢なのか。「ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである」という当時の価値感を念頭に置いているからである。
しかしルカだけが記している事柄がある。それは主イエスが復活の証明として「焼き魚」を食べたということである。椎名麟三という作家は、こう言う。「どうも復活後のイエスは、食べてばかりいる」。言いえて妙、なるほどと思う。食べることは、生きている証に他ならないからである。私の母親もそうである。食べるとしゃべるがつながっている。食べると元気が出て、しゃべるようになる。しゃべるとお腹がすいて、食べるようになる、すると元気が出て…の繰り返し。食べる力は大切である。

今日のテキストは「どうも復活後のイエスは、食べてばかりいる」と喝破した椎名麟三氏の愛唱個所、信仰の原点なのである。聖書を読む、頭では理解できる。しかし信じられない。その彼を惹きつけたのかこの箇所なのである。この体験を彼は「私の聖書物語」という本にまとめている。彼の目を開かせたものは何か。少々引用しよう。
そこへイエスがまたあらわれたんだな。きつと真裸じゃおかしいから、やっぱりあのユダヤのダラリとした白衣を着ていたにちがいない。ふむ、自分は霊じゃない、嘘と思うなら、自分の手や足を見てくれ、さわって見てくれ、霊に肉や骨はないが、わたしにはあるのだって?……よろしい、イエス君、そんなにいうのなら見てあげよう。」
そうして、彼は、弟子やその仲間へ向ってさかんに毛脛を出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いたのである。ひどく滑稽だった。だが、次の瞬間、そのイエスを思いうかべていた頭の禿げかかった男は、どういうわけか何かドキンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラ揺れるとともに、彼の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急にやさしく見えはじめたのである。彼は、その自分が信じられなかった。彼は、あわてて立ち上って鏡へ自分の顔をうつして見た。だが、それはまるで酔っぱらったように真赤にかがやいていて、何かの宝くじにでもあたったような実に喜びにあふれた顔をしているのであった。彼は、その鏡のなかの顔を仔細に点検しながら友情をこめて言った。「お前は、バカだよ。」彼が復活の出来事を了解した、その刹那が正直に告白されている。
突然、復活の主イエスが、弟子たちのところへやって来られる。そして真ん中に立たれる。弟子たちは幽霊を見ているのではないかと、恐れおののいた。古代ユダヤ人は死んだ人間が、たまに寂しい場所をうろつくことがあると信じていた。だから暗くなってから一人ぼっちで寂しい所に行くことをしなかった。聖書の人々は、基本的に一人が嫌いなのである。ある聖書学者は「彼らは小心者であった」と注釈している。しかし彼らの恐怖は、復活の主イエスを、幽霊だと思ったからだけではない。
主イエスはこう言う「なぜうろたえているのか、心に疑いを起こすのか」。「疑い」というが「復活」が信じられない、という意味ばかりではない。愛するお世話になった先生である。懐かしい師である。しかし弟子たちには素直に喜べない心の悔いがある。先生を見捨てたのである。裏切ったのである。逃げたのである。後ろめたい思いが、心の滓となって沈んでいる。先生に合わす顔がない、と悲嘆に暮れていたその矢先に、突然のサプライズ、噂のご本人が皆の真ん中に顔を出したのである。うろたえて当然である。
「疑」は「うたがう」という意味の漢字。字源は「道で杖をついた人が後ろを向く」を表す漢字。「方向が正しいかわからず、進退を定めかねている様子」を意味する漢字である。この漢字の意味通りのことが、弟子たちに生じているのである。「後ろを向いてしまい」「方向が分からず」「進退を決めかねている」状態、まさに字のごとしである。
そういう弟子たちの姿を目の当たりにして、やるべきことは何か。こんな時、私たちがするのは、「お説教」あるいは「叱咤激励」ないし「気合を入れる」である。しかしうらみつらみを言ったところで、どうにかなるものか。説教で人は変わらない。
先ほど紹介した椎名氏の文章はこう続く。しかし不思議なことにはその鏡のなかの顔は、そういわれてもやはり嬉しそうにこコニコしていたのであった。全く、あの復活したイエスが、生きているという事実を信じさせようとして、真剣な顔で焼魚をムシャムシャ食べて見せている姿は、実に滑稽である。だがその私にとっては、そのイエスにイエスの深い愛を感ずると同時に、神のユーモアを感ぜずにはおられなかったのである。どうやら、いまではこのイエスの姿は、私の肉体のなかに住みついてしまっているようだ。

ルカだけが、弟子たちの前で「焼き魚をむしゃむしゃ食べる」情景を描いている。どうしてルカは、ある意味では「滑稽ともいえる」風景を、なぜ描いたのだろう。この振る舞いは、日常の生活そのままである。弟子たちはかつて何度、こうした師の振る舞いを目にしていたことであろう。前と変わらない主が、共に居られる。十字架を前に、先生を見捨てたのである。裏切ったのである。逃げたのである。しかしその先生は、前と変わらない様子で、態度で、表情で、わたしの前に立ってくださっている。椎名氏はこれを「深い愛」と呼ぶのである。「イエスが真ん中に立ち」。弟子たちの真ん中に立ち、つまり教会の真ん中に立ち、そして一人ひとりの弟子の人生や生活の真ん中に立ち、変わることのない「深い愛」を注いでいてくださる。むしゃむしゃと魚を食べる主イエスは、今も私たちの中に、住んでおられるのである。