「目が開け、見えなくなった」ルカによる福音書24章13~35節

 

「こしょく」と聞いてどんな字を思い浮かべるだろうか。「孤食」と書いて「一人ぼっちで食事をする」。「個食」と書いて、「家族ひとり一人が別々のものを食べる。」また「小食」、「ダイエットのために少ししか食べない」。また「固食」、「バランスを無視して、決まり切ったものしか食べない」。「食」をめぐる現代の問題を表す言葉である。これらの言葉の共通点は、「食卓」の不在である。皆が食事を共にする時・場所が喪失している。「共に生きること」の喪失が顕著に表れているものであろう。

さて、キリスト教信仰の中心は、十字架と復活である。十字架については4つの福音書それぞれ、少しずつ記述の違いはあるものの、事柄としてはほぼ共通する内容を持っている。ところが、復活の方は、それぞれの福音書を読み比べてみると、何とまあ、その違いの大きいことか。それだけ福音書記者たちは苦労しているのである。復活という出来事を何とかしてリアルに伝えたい、真実を知らせたい、と試みているのである。マルコのようなイエスの生き方、十字架にいたる生涯に集中して目を向ける思想家は、「復活」をただ「空虚な墓」としてのみ描き出す。復活のイエスを登場させないことによって、復活を逆説的に語ろうとする。どこに主は復活したのか、何処で主と会えるのかと問い掛けるのである。

今日取り上げるルカは、物語の神学者であるから、復活という出来事も、物語によって語ろうとする。エマオ途上の物語は、聖書の中でも秀逸な構成を持っているといえる。ニ人の人が道を歩んでいる。この二人は約12キロの道を歩む。3~4時間の道のり。そしてこう書かれている。15節「話し合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし二人の目は遮られて、イエスだとは分からなかった」。
1950年代、国連の事務総長を務め、61年に飛行機事故で亡くなったダグ・ハマーショルドの日記に次のような一文がある。「夜は近きにあり。道のなんとはるけきことよ。しかし、この道を辿るために要した時間は、道がどんなところを通っているかを知るために、私にとって一瞬ごとにいかに必要であったことか」。「もうすぐ夜である。これまで何と長い道を歩んで来たものだろうか。その道は山あり谷あり、いろいろな道だったけれど、そこをたどった一瞬一瞬は、一時たりとも無駄な時間はなかった。皆、自分にとって必要なものばかりであった」。皆はいままでの自分の道のりをそのように感じられるか。人柄とか誠実さがこの言葉にはあらわれているが、今までの自分の歩み、辿った道のりは、皆、自分にとって必要なものだった、という言葉は、なかなか口にできるものではない。人生に対して、色々な不平や不満、疑問、つぶやきをもらして生きるのである。

エマオ途上の二人、ひとりはクレオパという名だとされる。もうひとりの名は知れない。この二人は夫婦であったとも言われる。この頃、朝夕にご夫婦で散歩されている方が多い。大体は横に並んで、仲良く歩いているが、中には5メートルほど離れて歩いている夫婦もいる。そういう場合、大体、ご主人の方が必死の形相で、奥さんの方はゆったりくつろいで歩いている。やはり旦那は俺が引っ張っていかねば、と散歩の時にも思い込んでいるようである。人それぞれである。昔、希臘の哲学者アリストテレスは、弟子を教えるのに、学校の庭を散歩しながら講義したといわれる。逍遥学派と呼ばれる。歩きながら考える、というのは結構いいアイデアが出てくるように思う。また議論をするにも、肩を並べて歩くから、面と向かい合わないで、余裕が生まれ、冷静に客観的に自分と人とを受け止めることができるのかも知れぬ。試してみたらいかがか。ただ5メートル離れていては、議論は出来ないだろう。

この二人も、議論をしている。「そしてまさに彼らは、これまで生じたすべてのことについて互いに語り合っていた」。随分強調された表現が使われている。夫婦であれ、友人であれ、仕事の仲間であれ、こういう風に、真面目に、真剣に、こころから語り合えて、語ることのできる事柄がある、というのは素晴らしいことだ、と言っているようだ。もしかしたら人生の豊かさは、このあたりにあるのかもしれない。誰かと互いに心から語り合えるものを持っているか。こころから聞くことのできる耳をもっているか。ルカはこの二人に託して、教会のあるべき姿をメタファーで語っているのだろう。教会は常に歩みつづけている。二人いれば教会である。「二人または三人が私の名によって集まるなら、わたしもそのにいるのである」。互いにナザレのイエスという方をめぐって、あれこれあれこれ、語り合いながら。ただそれだけ。しかしそれが教会の原点だ、とでもいうように。但し、残念ながら彼らの表情は暗い。「二人は暗い、悲しい顔をして、立ち止まった」。教会はここから歩み出すのである。
この二人の道連れが、「教会」を表している(隠喩)であるとの証拠が記されている。夕刻、エマオに着き、クレオパの家に到着すると、二人は主イエスを引き留める。「お泊りください」、主は私たちの招きに応じられる。「主よ、ここにお出でください」という祈りに応えてくださる。今もそうである。三人で共に夕べの食卓につく。主イエスがホストとなって、パンを裂き、そのひと切れづつを二人に分かち合う。これは初代教会の礼拝の様子を、そのままに映し出しているのである。礼拝は夕刻に行われる。家の教会に信者は集まり、持ち寄りの食べ物を食卓に並べ、分かち合って食べる。それが礼拝であった。はじめに家の主人あるいは教会の世話人が、パンを取りこれを裂く(十字架の想起)、そして食卓に集っている一人ひとりに手渡す。「パン裂き」と呼ばれ、これこそが礼拝の中心であった。食べ、飲み、賛美し、み言葉を語り、祈り、最後に「主よ、ここにお出でください」と皆で唱和して礼拝は閉じられる。その有様を、ルカはエマオの物語の中で、物語として再現しているのである。

ここで興味深いのは、31節「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。面白い構文である。「目が開かれる、すると見えなくなる」。矛盾することを語っているかのようだ。但し、人間の感覚は、この言葉のようである場合が少なくない。見えているのに、見ていない。見えてないのに、見えているように感じる。視覚と脳の処理との乖離、あるいは修正の問題である。主イエスも言われた「見えていなければ罪はなかっただろう。見えると言い張る所に、あなた方の罪がある」、誠に手厳しい
この構文はこう理解することができる。「二人の目が開かれ、主は確かに居られることが分かった、すると目に見えるかどうかは、問題でなくなった」。ここにルカの一番の主張がある。「復活の主を見た、よみがえりの主が現れた」と弟子たちは口々に証言する。しかし問題は見たかどうか、ではなくて、今、よみがえりの主が共に居られて、生きて働かれているという事実そのものではないか。見えるか見えないかは本来どうでもいいことだ。
「話し合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし2人の目は遮られて、イエスだとは分からなかった」。確かに主イエスと分からないまでも、復活の主が近づき、一緒に歩み出される。教会も、ひとり一人の人生もそういうものだというのである。私たちの希望はこれにかかっている。「イエスご自身が(の方から)近づいてきて、一緒に歩き始められる」。このみ言葉があるから、今日の歩みを、また一歩一歩、歩むことができるのではないか。
ハマーショルドの言葉をもうひとつ。「過ぎ去ったものには、ありがとう、そして来るべきものには、イエス(はい)」。私がどうであれ、イエスが私の人生に関わってくださる、ここから自分の人生に対して、はい、という返事が生まれてくるのではないか。