「命を献げるために」マルコによる福音書10章32~45節

世界第2位の経済大国。日本は長くこう呼ばれていた。高度成長を支えた世代は誇らしく思ったことだろう。名目国内総生産(GDP)で他国に抜かれ、3位に定着して久しい。すっかり経済大国の面影は薄れたが、別の分野では今も大国と呼ばれている。プラスチックごみの排出国としてである。国連環境計画の報告書では国民1人当たりの排出量は年32キロに上り、米国に次ぐ2位だった。すべてのことを、オリンピックのメダル競争のように、誰が一番なのかばかりを気にして、走るのも、空しいことだ、と感じる。しかし大国とは何をもってそういうのだろう。こんな新聞記事を見かけた

「ある男性と会ったときの印象をその女性は帰りの飛行機の中でこう記録した。『小柄で、青白く、は虫類のように冷たい』『(男は)自国に起きたことに屈辱を感じ、その偉大さを再建することを決意している』。ある男性とはロシアのプーチン大統領である。偉大さの再建。ウクライナ侵攻の今なら、うなずけるが、女性が書いたのは二〇〇〇年。約二十年も前に大統領の抱える屈辱と野望を見抜いていたか。高い洞察力の主は女性初の米国務長官を務めた方である。マドレーン・オルブライトさんが亡くなった(3月27日付「筆洗」)。女史は、1歳の時、ナチス・ドイツの侵攻で故郷プラハを追われ、終戦後帰国するが共産党政権の発足で米国に亡命した。ホロコーストでは祖父母らも犠牲になったと後で知ったという。そういう苦難と苦悩の経験からの慧眼であろう。「屈辱と野望」、そして「偉大さ」、やはり人間というものは、そこに自らの存在意義を見いだすのであろうか。

今日の聖書個所もまた、典型的にマルコらしい描き方がされている。こう表題が付されている。「イエス、三度目の死と復活を予告する」。またもや「十字架と復活」が繰り返され記される。マルティン・ケーラーは、マルコ福音書を「長い序文付きの受難物語」とその特徴を指摘するが、まさに著者の意図を上手く言い表している。三度目の受難予告は、これまで二回の予告と比較して、やはり詳細なものとなっている。33節以下「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」。ある学者は「イエスのこの時の態度と気勢は全く特別であった。平日は弟子たちと語りながら群を為して進み給うたのにこの時だけは目をエルサレムに向けて突撃し給う姿勢であった。おそらくその目は血走っていたであろう」と語るが、ここで「イエスは先頭に立って進んで行かれ」という文言と、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」という章句を並べることで、マルコは、最初の教会が、十字架について語ることを困惑し、逡巡している有様と、主イエスの受難が、「運が悪い」とか「事故」とかいう偶然の所為ではなく、主ご自身の深いみこころによるものだと、鋭く主張しているのである。十字架を語らないなら、教会は、キリスト者は、主イエスと何の関係もなくなる、というのである。

ところがここでも、「十字架」と足並みそろえて「無理解」が語られるのである。しかも民衆やファリサイ派の人々、そして律法学者たちではなく、最も主のお側近くにいた12弟子の無理解が語られるのである。ヤコブとヨハネの兄弟、シモン・ペトロとアンデレに次いで召された、いわば二番弟子とも言える彼らが、主イエスの前に進み出て、主に願った、というのである。「世の終わりの、神の至福の時が来れば、あなたは輝かしい栄光の座におつきになるのでしょう。その時、私たち二人を、一人はあなたのすぐ右の座に、もう一人はすぐ左の座に座れるようにしてください」。簡単に言えば、「右大臣、左大臣」つまり「ナンバーツー」にしてください、と言うのである。彼らはほんのちょっと遅れて、声を掛けられた二番弟子だったから、最初に主に呼ばれたペトロが妬ましかったのかもしれない。「やはりペトロさんは、さすが一番弟子だから、一味違いますな」と皆から持ち上げられるのを、内心、うらやんでいたのだろう。

彼らの手前勝手で頓珍漢な願い、滑稽にも思える要求に対して、主イエスの対応に感心させられる。普通ならば、身の程弁えない、わがままな願いだから、言下に拒絶、あるいは叱責されるのが落ちであろう。しかし主は、彼らの一方的な思い込みを、ただ否定し批判するのではなく、忍耐深く彼らに語り続ける主の姿勢に打たれると言ってもいい。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」。正しいか間違っているか、真面目か不真面目か、真実か虚偽か、崇高か低俗か、なのではない。人間の問題は、程度の違いこそあれ、善悪はっきりとどちらかに区分けできるものではない。彼らの願いに、主は「正しい」とか「間違っている」という評価をしていない。「何を願っているか、分かっていない」と言われる。この言葉は、主が十字架に釘づけられるときにも語られる言葉である。「彼らは何をしているのか分かっていないのです」。ヤコブとヨハネだけではない、「ほかの十人の者は、これを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」という。「分かっていない」のはヤコブとヨハネだけではない。弟子たちの皆も、「分かっていない」のである。そしてマルコは、この12人の滑稽な有様、つまり十字架を前にしても、誰が偉いか、誰が上に立つのか、だれが一番なのか、という権力争いを語ることで、形を変えて、初代教会の人々の間でも、こうした一番争いが生じているのを、暗に告発しているのである。

連日放送されるニュースショーで、評論家や有識者が、戦争を仕掛けたロシアの大統領について、「何を願っているのか、わからない」と口をそろえて語る。子どもや母親、年よりの民間人が殺戮されている。戦争の真実とは、正義だ悪だではなくて、人が死ぬ、ただそれだけである。そういう光景に対して、「何を願っているのか、分かっていない」というのである。人間の問題はこれに尽きるだろう。「人間はこれまでずっと、この世に天国を作ろうと願い、努力してきた。そしてその結果、やって来たものは、地獄であった」という言葉がある。人間の力によって、上を求めること、高みを求めること、大きさを求めること、はそれがどれほど純粋で、崇高な思いや理念であったとしても、いつか破れるのである。どんな歴史上の強大国も、滅びて行ったのである。「あなたがたは、今、何を願うのか」、厳しく主から問われている。そして「何を願っているか、分かっていない」という御声をもまた、静かに聞こえてくるのである。

こんな話を読んだ。「いくら高性能になったといっても、ロボットにとってわが家は、未踏峰か熱帯のジャングルに挑むような状況だろう。掃除中、椅子に行く手を阻まれたり、テーブルの袋小路に入ったりして身動きができなくなることもある。そのけなげさ、不完全さがいいと、随筆『〈弱さ〉の復権』で説くのは、豊橋技術科学大学でロボットを研究する岡田美智男教授だ。この掃除機が働くとき、人が先回りして椅子をどかしたり、コードを片付けたりして助けてあげる。この主客転倒ぶりが逆に共同作業の満足感を味わえるというのだ。こんな発想から岡田さんは『ごみ箱ロボット』を開発した

ごみ箱の姿をしたロボットはヨタヨタ歩くだけで、自分ではごみを集められない。ごみに近づくだけだ。周囲にいる人は放置できず、ごみを拾って入れてやる。するとロボットはペコンと会釈する。不完全な、いわば『弱いロボット』だ。いまの社会は効率一辺倒で、他人の失敗に不寛容になった。正確無比な万能マシンが増える中、岡田さんが開発するロボットは私たちに共生や助け合いの在り方をそっと問うているようだ」(2月27日付「日報抄」)。

「何を願っているか、分かっていない」。皆さんは、人が生きるにあたっての根源的な願い、とは何であると思うか。一番の高みに立つことか、誰よりも一番大きくなることか、あるいはあらゆるものの中で、最も強くあることか。そうではないだろう。「生まれてきて良かった」と思えること、自分に与えられた生命が、今、生かされていることをそのまま良しとして、喜べることではないか。「いまの社会は効率一辺倒で、他人の失敗に不寛容になった。正確無比な万能マシンが増える中、『弱いロボット』は、私たちに共生や助け合いの在り方をそっと問うているようだ」という。本当に、与えられた生命が輝くのは、「共生や助け合い」の中に、私たちの生命が育まれている時ではないのか。45節「人の子は(主イエスは)、仕えられるためではなく、仕えるために、また、自分の生命を献げるために来た」。ここに、人間の一番の幸いの根があり、基がある。主イエスが生命を献げて下ったから、その生命が私たちの内に息づいて、一人ひとりが共に生きて、共に喜びことができるのである。