祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書12章28~44節

田舎で、現地の人に道を尋ねると、親切に教えてもらえるが、大抵「すぐそこ」と言われる。「何だ、近いのか」と安心して行くと、中々目的地に着かないで、小一時間程してようやく到着する、なんてことがある。「遠い、近い」は感覚的なものだから、距離にかかわらず自分にとって「身近かどうか」の判断なのだろう。

不動産屋での物件紹介で、「駅から10分」と記されてあれば、それは「800m」の距離を表している。「人が一分間に80m歩く」という基準によって、不動産会社共通に算定しているのである。但し、「上り坂、降り坂、信号の数、踏切の有無」等は全く考慮されていないから、実際に歩いてみる時の「遠近」の感覚は、決して同じではない。「歩いて10分」の距離も、仕事に遅刻しそうになって、急いでいる時と、休日で寛いで気晴らしに出かける時とでは、大分「遠近」感覚は異なるであろう。

今日の聖書個所には、主イエスがエルサレム入城してから後の、いくつかのエピソードが並べられている。一つひとつの段落は、それぞれ個別の出来事を記している。「最も重要な掟」、「ダビデの子についての問答」、「律法学者を非難する」、「やもめの献金」以上4つの段落で構成されている。これらの物語をざっと眺めると、相互に緊密な脈絡がなく、まったく別々の話のように受け取れる。確かにこれらは元々、教会に伝えられていた個別の伝承であり、その個々の伝承を、福音書の著者マルコがこのように配置した、ということであろう。しかし、単に機械的に並べて見せたという訳でもないだろう。著者がかなりの神学的意図をもってこの福音書を記していることは、明白だからである。

この個所の、それぞれの伝承で語られている事柄は、おそらく初代教会において、キリスト者によって盛んに議論された「論点」と言えるものであっただろう。まず、ユダヤ教の「律法」に対して、自分たちはどういう「態度」を取れば良いのか、という問題が上げられる。初代教会の人々は、自分たちの信仰がユダヤ教から派生したものと考えていたから、一概に「律法」を否定したり、放棄しようとはしなかった。但し、主イエスご自身の律法に対する姿勢をも受け継ごうとしたから、「律法主義」的あり方も良しとはしなかったろう。そこで「律法の成就」、つまり律法の枝葉末節に拘るのではなくて、律法全体の精神を体現し、律法の肝心を実践しようとしたのである。それが「あなたの神である主を愛しなさい」という申命記の戒めと、「隣人を自分のように愛しなさい」という民数記の戒めなのである。この2つの戒めが律法の中心であることは、当時のユダヤ教の人々の間でも常識であっただろう。

次に「ダビデの子」問題もまた、教会に問われた事柄であった。主イエスは、ナザレの大工ヨセフのせがれであり、当時の王族、貴族の一員ではなかった。ユダヤ教において、古の名君、ダビデ王に対する畏敬の念は強かったから、いつしか「メシア」はかの王の子孫から生まれ出るとの期待が膨らんだことも頷ける。ところがダビデ王の時代は、新約の千年も前なのである。そこまで時代が隔たっていれば、ユダヤ人全員がダビデの子孫と言えなくもない。この国の人々の出自は、ことごとく源氏か平家に遡る、という類比で説明できるだろう。ダビデの子孫という観念は、まったく人間的な願望の反映であることを、物語は示唆している。

また当時の「律法学者」の偽善的ふるまいについての言及も、実際、問われているのは、教会に集うキリスト者自身のあり方なのである。だから「やもめの献金」の物語がこの後に続くのである。「偽善」ではなしに、「真心」をもって神に仕えるとは、どういうことであるのかが、一人の貧しい寡婦の献金する姿勢、「レプタふたつ」を献げるという行為によって示される。そのわずかな金額は、彼女の生活費のすべてなのである。金額ではない、そこに込められた「心」こそが問題なのである。

確かにこの貧しい寡婦の行為は、有り余る中から、いくばくかを献げるという金持ちの姿勢に比べれば、全く異なる質を持っている。しかし正直、思うのである。女は強制されてこのような良い振る舞いをしたのではなく、どこまでも自分自身の真心の発露である。しかし、生きるための最低限の生活費、すべてを捧げてしまうような行為は、あまりに痛々しいのではないか。40節に「やもめの家を食い物にし」という批判を記すのも、人間の素朴な信仰心に乗じて、密やかな圧力として働くのが、「神殿」体制なのだ、とマルコは言いたいのだと思われる。

さて、これらの伝承をマルコは並べて見せているのだが、そこにどんな「意図」をもって構成しているかが問題である。教会は極めて真面目に、教会の内外から問われている問題を受け止め、それに誠実に応答しようとしている。しかしその応答が的外れであったり、不完全であったり、あるいは偽善的な傾向を帯びることもあったろう。自分たちの発言が、そのままブーメランのように帰って来て、そのまま自分自身を裁くこともある。あるいは誠心誠意、真心をもって主イエスに仕えることを信条としていても、生活を維持するためにどこかで妥協を余儀なくされることもある。発言自体は正論であっても、それを生きることができないという忸怩たる思い、等など悩みは尽きないのが、実に最初の教会の日常であっただろう。

そこに主は呼びかけられるのである。34節「あなたは、神の国から遠くない」。神の国の中に既にいる訳ではないが、全く到達できないほどの遠方に置かれている訳でもない。否、手を伸ばせばそこに、「神の国は、あなたがたの間にある」。そのような希望の中に、教会は置かれているのである。但し、自分だけの力で、自らの足でそこに赴くことは、何としても到底、無理なのである。

「私が目指しているのは、天国(神の国)に続く道です。その道は一人では歩けません。まわりの人たちともに、神様に導かれなければ、最終ゴールに辿り着くことはできないでしょう。しかし、それは誰もが歩ける道です。何も難しいことをする必要はなく、日常生活の小さなことや仕事を通して、まわりの人に愛を示し、幸せをもたらすように心がければ良いのです。天国につながる道はいくらもあり、人によって辿る道は違うでしょう。神様に導かれながら歩くなら、この旅路は苦しくとも楽しく喜びがあり、その先に永遠の幸福が待っています」(中井 俊已)。