「地の果てにまで」使徒言行録13章44~52節

こういう文章を読んだ。「逃げることは生きることです油虫」秋元倫。夏の季語となっているこの虫。農作物などに付くアブラムシではない。テカテカと黒く光り、高温多湿の今まさに活動の最盛期を迎えた“あいつ”である。とにかく嫌われ者だ。名前を口にするのも汚らわしいと、頭文字のみで「G」と呼ぶ人までいる。江戸の昔、食物を盛った「御器」にたかるので「ごきかぶり」と名付けられた―という通説は案外かわいらしいのだが。目の敵にされるということは、裏を返せば気になって仕方がない存在と言えるだろう。出くわして肝を冷やした体験談や、お薦めの退治法といった話題に事欠かない。こんな題材迄、俳句にするのかという以外な気もするが、諧謔味も感じさせられる。

俳句を嗜む人は多い。テレビでもタレントや俳優といった素人が俳句をものし、それを専門家が批評する、という番組が人気を博しているという。俳句には季節を表す言葉「季語」がつきものだが、現代俳句では、いろいろな事物、事象が「季語」として用いられている。四季折々の風情や情緒を、より一層楽しもうという趣向だろうが、「油虫、ゴキブリ」までも季語として扱われているということに、驚かされる。もっとも「季語」も不変、普遍のものでなく、「マスク」が冬の季語から外れる可能性がある、というのである。コロナによってマスク着用が常態化したせいである。するとコロナは「俳句」をも変える力をもっている、ともいえるだろう。

さて、この俳句は、ゴキブリが逃げるのは、「生きる」ためだという。この句は単に、ただただ人に嫌われるかの虫の、生態を歌うものではないことは、お分かりだろう。「逃げる」という行動、人間も決して無縁なものではない「行動」が、「生」と密接に結びついていることを見抜いているのである。ある否定的、ネガティブな振る舞いも、見方を換えれば、別の側面が見えてくる、と言いたいのであろう。「善悪の彼岸」、つまり善とか悪とか、良いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、という価値基準や評価を超えた向こう側にある、もっと切実な事柄、生命の真実というものを、指し示していると言ったら、大げさだろうか。

今日の聖書の個所は、パウロの第一回宣教旅行での途上の一コマである。丁度、旅の行程の中ほど辺りまで来たところだろうか。パウロも大分、旅慣れてきたような印象を受ける。言行録の著者ルカは、この宣教旅行において、パウロ一行が、ユダヤ人の会堂(シナゴグ)を足掛かりにして、人々にアプローチしたことを伝えている。パウロもバルナバも、共にユダヤ人であるから、すんなりと会堂で話をすることはできたという裏事情があったろうが、それだけシナゴグは、開かれた場所だったということである。この時代に、教養というのは、ひとつにギリシャの文学や哲学について知っていることであるが、同時に人々は、ユダヤ人でなくても旧約聖書(ギリシャ語で読めた)を知ることが、教養人としての嗜みであったのだ。

そこで、主にパウロが人々に語ったことが記されているが、やはりギリシャ語に精通した、若々しいパウロの弁舌は、人々の心を惹きつけたことは、想像に難くない。44節「ほとんど町中の人が、主の言葉を聞こうとして集まって来た」というのである。確かに新しいもの、新珍なものに、人間の関心は向けられる。しかしただ何でも新しければそれで良い、というものでもない。突拍子もなく、何が何だか分からなければ、心は伝わらないだろう。そこへ行くと、パウロの話は、旧約という馴染みの深い、古く長い伝統に裏打ちされた話題を引き合いにしつつ、そこからナザレの主イエスの福音をつなげて語る、という木に竹を接ぐようなやり方だから、懐かしさと斬新さがないまぜにされて、人々に強いインパクトを与えたことは本当だろう。

人が行列を作っていると、人間はそこに何があるのかよく知らなくても、何か良いものがあるのだろうと、興味を示し、自分も列に並びたがるものである。今では「並ぶことはファッションだ」などと煽てられて、並んで待つこと自体に、意味が付与される有様である。皆さんは、「並びたい願望」の持ち主か。ところがこうしてパウロとバルナバらの宣教が人気となり、人が沢山押しかけるようになると、反発も大きくなったという。これもまた「人気」というものの裏事情とも言えるだろう。

45節「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどく妬み、口汚くののしってパウロの話すことに反対した」という。さもありなん、古今東西、いずこも同じである。かのアテナイの哲学者、ソクラテスもたくさんの若者を近くに集めて、哲学談義に花を咲かせたが、外見は不細工なのにあまりにモテるので、他のソフィストたちの妬みを買って、陥れられ命を落とした。ナザレの主イエスもまた同じである。ファリサイ派やサドカイは、祭司たちの妬みによって十字架に付けられたことが、福音書に記されている。

この時、パウロはイザヤ書49章6節(七十人訳)を引用して弁明しようとする。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために」。この引用は興味深い。神は、「光」、つまり「福音」を「地の果てにまで」もたらそうとされる。問題は「どのようなやり方によって」ということである。49節以下にこう記されている「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが(それゆえ起ったことは)、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」。福音が告げ知らされて、伝えられて広まるのは、「迫害され、追い出された」からだ、という非常に逆説的な主張が、ここにはなされているのである。福音が、み言葉が素直に人々に受け入れられて、めでたし、めでたし、という単純なことではない。そもそもパウロの宣教旅行というものが、何であったのか、ルカは巧みに描き起こしているのである。

「パウロは、ものにつかれたように、後ろから押し出されるかのように、奥へ奥へと足を踏み出している」と彼の宣教旅行について、感慨を述べている聖書学者があるが、そのような足跡の根本にある事柄は、「迫害され、追い出された」からなのである。反対や反発が激しくて、いつ何時、叩き潰されるかもしれないと、到底そこに留まることができなかったから、パウロは次の場所へと足を向けたのである。まるで最初に紹介した「逃げることは生きることです油虫」の如きである。彼がインディ・ジョーンズのように、恐れを知らず大胆に、忍耐強く、優れた能力を持っていたから、宣教旅行ができたのではない。追われたから次の場所へ向かうしかなかったのである。迫害者の目から見たら、彼らは「恐れをなして、逃げだした弱虫」だったろうが、確かに非力ではあったろうが、しかし、パウロは主イエスの言われたことを、忠実に守っている。51節「それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。」。かねがね主イエスは弟子たちに言われていた。まったく聞く耳持たず、あなたがたを全く無視し、ひどい処遇をするようなところならば、そこから出て行け(逃げ出せ、他所へ行け)。但し、ただ尻尾を巻いて逃げるのではない、足からその町の埃を払い落としてから、出て行け」。これが主イエスの精神性である。負け犬になることもある、尻尾を巻いて逃げるようなこともある。ただその時、全くの屈伏、完全なお手上げ、ということはない。「足から埃を振り払うことはできる」これが主イエスの抵抗の姿勢である。そして、主のみ言葉が生きて働くところには、何が生まれるか、「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」、逃げながらも、追われながらも、そこには喜びと充実が、満足が生まれるのである、と。

最初に紹介した文章は、こう続く。ただ、不気味な害虫とのイメージが強すぎて、昆虫としての興味深い素顔を知る機会を逃してはいないか。その魅力を広めている研究者・柳澤静磨さんの新著「ゴキブリ研究はじめました」に少々反省させられた。日本に生息するのは約60種。ほとんどが森林で「分解者」として暮らしており、カラフルで見た目の美しいもの、ダンゴムシのように体を丸められるもの、水に潜るものもいるという。駆除剤は近年、必要以上に苦しませることなく瞬時に仕留める方向に変わっているそうだ。危険を察した彼らの逃げ足は1秒間に体長の50倍と、人間なら時速約300キロに相当する。その能力には敬意を払いつつ…。(7月31日付「滴一滴」)。

最初の教会の宣教は、迫害を受けてそれまでの居場所を追い払われ、逃げざるを得なかったキリスト者によってなされた。彼らは追われて逃げながら、福音を告げ知らせたのである。そしてそこから異邦人の世界に、幾つもの教会が誕生して行った。「逃げることは生きることです油虫」、逃げることが宣教すること、神は人間の働きを、そのようにお用いにになる。無駄な労苦、情けない振る舞い、徒労、そういう人間の生のすべてを、ご自身の働きとなさるのである。9月の歩みが始まった。この月の最初の聖日を、「振起日」として守ってきた歴史がある。神のなされるそのみわざに、絶えず新しく心と魂を奮い起こされる、キリスト者が一生味わい続ける経験である。